第七十九話 ヤンキーと姉と②
帰り道――小木はエイジと別れ、姉もバイトの日なので一人で家に向かっていた。
住宅街へ入るとあちこちから夕食を作る香りが鼻を刺激した。
そのせいか住民達の姿はない、夕日照らされた住宅と電柱だけしかない少し寂しい光景であった。おそらくその匂いに皆つられて、自分達の家へと帰っていったのだろう。
小木の背後から派手なマフラー音が聞こえる。
そしてその音と風に小木が引っ張られて、路地裏に連れ込まれた。
「おい、お前真由美の弟だったよな?」
うるさい音と風の正体は先ほどの藤堂だった。
「お前にお願いがあんだよ」そう言って錠剤を出す。
「これを親がいない時に真由美の飲み物の中に入れてくんない?」
「え、なんで?」
「そりゃ、お前秘密だよ。その後俺を家に入れてどっか行ってくれればいいから」
「嫌だよっ――うぐっ!」拒絶した瞬間、小木のみぞおちに拳がめり込んだ。
「げほっげほっ」と膝から崩れ落ちる彼に容赦なく藤堂は足で何度も踏みつける。
「いいから、俺がやれって言ったらやれやっ! おらっいつ親がいない日があるんだ? 言えっ言えよこらぁっ!」
地面に押しつけられながら小木が応える。
「あ、明日です……」
「それはちょうどいい、明日の夕方に飲ますんだ。それとこの事は誰にも言うんじゃねぇぞ? 言ったらこれから死ぬまでいじめ続けてやるからな」
「うぅっわかりました」と身体を小さくして泣く事しか出来なかった。
翌日――小木家にて。
夕飯を食べてソファーでくつろぐ真由美を暗い顔で見る小木。
昨日の藤堂の脅迫が頭にこびりついて生きた心地がしなかった、彼は今まで誰にも相談できずに時間だけが止まる事を願っていた。
「ね、姉さん。コーヒーと紅茶どっちがいい?」
「ありがとう。じゃぁ紅茶で」
恐怖が小木の身体を支配してティーカップの中に藤堂に言われた通り、錠剤を入れる。
自分が取り返しのつかない事をしようしている事、止める術がない事が彼の肉体に異常を起こして、運ぶ手がカタカタと震える。
「どうしたの? 朝から様子がおかしいわよ? パパもママも居なくて寂しいの?」
「い、いや。そんな事……」
「変な子ねえ」と訝しながら紅茶を口にする。
「あっ……」と思わず口に出るが彼女の様子に変わりはない。
「そういえば藤堂先輩からあれから何か嫌がらせとかされてない?」
藤堂という単語にビクッと身体が跳ねる。
「まさか、何かされたんじゃないの?」と問い詰めた瞬間、真由美のまぶたが重くなる。
「あ、あれ? おかしいな、急に眠くなってきちゃった……この話はまた明日の朝聞かせてもらうからね」
「う、うん……わかったよ」とフラフラして歩く彼女の背中を見送る。
自分が飲ませてしまった物の正体、そして眠って無抵抗の真由美に藤堂が何をするのかがわかって、精神が限界を向かえ吐き気を催す。
両手を口で押さえて膝から床に落としたその時『ピンポーン』と玄関のチャイムが鳴った。
『ピンポーン』
身体は動かない。
『ピンポーン』『ピンポーン』『ピンポーン』
玄関の人物が急かすようにチャイムを連打し始めた。
居留守など使えるはずはない、ドアを壊れるんじゃないかと思うほど叩く音も聞こえ始めた。
もう逃げる事はできないんだと諦めて、ゆっくりと立ち上がり玄関に向かう。
「えっ?」
ドアの鍵を外した瞬間、それはものすごい勢いで入ってきた。
「小木君、こんばんわっ! とりあえずトイレどこっ!?」
尻を両手で押さえながら、エイジが玄関で両足をばたつかせている。
何が起きたかわからずに固まる小木の両肩を揺さぶって「漏れちまう、トイレ貸してくれっ!」と顔を真っ赤にしながら急かす彼に「そ、そこの二番目のドアだよ」と言う。
「わかった」と雷のような速さでトイレへ向かい勢いよくドアを閉めた。
「いやー助かったよ。小木君の家がここらへんだって聞いててよかった」
「ど、どうしたの?」
「へへへ、急にバスの中で腹が痛くなっちまってさ。たぶん帰りに寄った駄菓子屋で賞味期限ギリギリだからもらってくれっていわれたゼリーのせいだと思うんだけど、どうだ? まだあるけど食べる?」
そう言って、ポケットからゼリーの入ったチューブを出す。
「いや、それ言われてから食べようと思わないよ。っていうかこれ賞味期限ギリギリじゃなくて五年前のやつだよっ!」
「えっ!? あの婆ちゃん目悪そうにしてたからなーいやそれともボケ始めか、まぁいいか」
「普通食べたらわかるでしょ」
「うまかったぞ?」と即答するエイジに嘆息をもらす。
「そういえば今日はお姉さんいらっしゃらないの?」
「えっあ、いや姉さんは……」とエイジのペースに飲み込まれていた意識が現実に戻る。
様子のおかしい彼の視線が階段へと移った瞬間、エイジはすかさず動き出す。
「はっはっはっ。甘いな小木君よ、お姉さんの所在を聞いた瞬間きみの視線は二階へと移った、それから導かれる答えは一つ、そこがお姉さんのいる場所だ」
「ま、待ってよ」とエイジの腰に抱きつきながらひきずられる。
「お姉さん、こんばんわー!」とドアを勢いよく開けるとベッドの上で寝息を立てている真由美がいた。
「あら、寝てるのか」と部屋を見回し「あーやっぱ女子の部屋はいい匂いがするな-」と森林浴をするように深呼吸をする。
そんな呑気な彼とは違って、悲しそうな顔をしながら小木は姉の寝顔を見る。
「うぐっ、ごめんなさい姉さん」と悔しさと情けなさで涙が流れてくる。
なんで少し、ほんの少しの勇気が無かったのか、ただ一言誰でもいい、誰かに「助けて」と言えればこんな結果にはならなかったのではないか。
そうだ、自分には身近に頼れる人がいたんだ、それを暴力という恐怖に隠されていたのだ。
「エイジ君、実は――?」
頼れるクラスメイトに振り向いた瞬間――
「あ、いや違うんだ。お姉さん制服のままだから着替えをと……へへへ」
そこにはクローゼットを漁りながら、真由美のパンツを両手で開いているエイジがいた。
「……」何も言わず俯く彼の様子が心配になり「どうしたんだ?」と近づく。
「いや、そんな怒らないでよ。真由美さんが寝てるからチャンスだっていう魔が差して……」
「エイジ君、お願い……助けて」と掠れた声を出す彼に「何があったんだ?」と事情を聞くエイジ。
「なるほどね」と一通りの話を聞いてエイジの顔に真剣さが浮かび上がる。
懺悔にも似た相談だった、我ながら臆病で卑怯な人間だと自省する小木はもうエイジの顔を見れなかった。
彼も自分の事を軽蔑してるかもしれない、そう思うと彼の顔を見る事ができなかった。
自責の念にかられる彼の頭にポンッと手を置かれた。
「えっ?」
「辛かったな、もう大丈夫だぞ」と歯を出して笑うエイジがいた。
「もうそういう事なら早く言ってよ。通りで今日は元気ないと思ってたんだよ、それでトイレのついでに……じゃなかった、バスを途中下車して小木君の様子を見に来たんだから」
「あの……軽蔑とかしないの?」
「え、なんで?」
「僕は自分可愛さに姉さんを差し出したんだよ? 最低なヤツだ」
「けど悲しいだろ、悔しいだろ。人に殴られて脅されるのは怖いよ」
拳を握りしめながら自分を責める小木にエイジの言葉が胸に刺さった棘を抜いた。
エイジは小木に対して、ビッと人差し指を指す。
「お前を責めるヤツは一度も自分より強いヤツに殴られた事のない軟派者だ。だから俺はお前を否定しない」
「だからそんな落ち込むな。だいじょうぶだから」
「う、うん」と返事をする彼にエイジはこれからの指示を出す。
「それじゃ、とりあえず言われた通りの事をして小木君は家を出てくれ」
「え、エイジ君はどうするの?」
「俺は小木君に見せられないような酷い事を藤堂にやるよ、ストーカー行為も忘れるほどのね」
「い、いや、そこまでは」
「ダメだよ、警察沙汰になったらエイジ君が学校に居れなくなっちゃう!」
「安心しなよ、その辺はうまくやるから」と親指を立てる。
「いや、いくらエイジ君でも警察のお世話には……」
『ピンポーン』と問答の中止を告げるチャイムが鳴る。
「そんじゃ、後はよろしく」と声をした方向へ小木が振り返るとすでにエイジの姿はなかった。
「えっ、いつの間に?」という疑問を打ち消すようにチャイムが鳴り続ける。
小木はしぶしぶエイジの言うとおりにするのだった。