第六十二話 幽霊旅館(苦手の理由)
そもそも、なぜ鶴ヶ島美鈴は『幽霊』を苦手としているのか。
牛鬼との戦いでも怯む事はなかった、そんな彼女が低級霊程度に尻込みするなど普通ではない。
その理由、それは美鈴が初めての依頼を請け負った事の話だ。
古い屋敷に住み浸き、居住者を苦しめる悪霊を退治するというなんて事はない、新人に回される初級中の初級の任務だ。
怨霊や亡霊には格があり、人を殺せるほどの力を持つモノならそれなりの実力者に仕事を回す、だが体調を悪化させる程度の霊力を持つモノなら将来を有望視されている新人に実戦を経験させるための経験値としかならない。
中学生になったばかりの美鈴はただ一人で屋敷の扉を開いた。それが夜が明けるまで続く地獄の入り口だと知らずに――
「なんだ大した事は無かったな」
処理はあっけないほどに終わった。
怨霊はいつもの肝試しに来た馬鹿な子供だと思った、屋敷内を巡回していた獲物に無作為に襲いかかった所を頭上からの一閃に真向斬りにされた。
美鈴は不快な断末魔に眉間にシワを寄せるが、それよりも初任務の達成感に心を躍らせる。
「外には一応、援護役が待機しているらしいが事務所もいらぬ心配だったな」そう言って窓の外から見える男を見下ろす。
彼は「よろしく。まぁ、適当にがんばれよルーキー」と気だるさを隠そうともせずに名前も名乗らず、屋敷の入り口で手を振って美鈴を見送った。
無礼な人間ではあるが、彼が纏う強者のオーラに怒りを押さえつけられた。
「あんな男とは二度と仕事などしたくない。そんな事よりもさっさと家に戻って、父上に事を報告をせねば――」
そんな事よりも父親に初仕事はうまくいったと告げる事の喜びの前では些細な事だと後ろを振り返ると、五メートルほど先に白い服の女が浮かんでいた。
「この気配……まだ亡霊がいたのか」
刀を構えながら、生唾を飲んだ。
“違う”
先ほどの亡霊とは違う異質な雰囲気。さっきのはこの屋敷の霊気に引き寄せられた来訪者だと美鈴は確信し、そして突進する。
この亡霊が後に、この街の能力者の天敵と呼ばれる『シー』だとも知らずに。
勝負は一瞬で決した。
美鈴の刀はシーに触れる事もできずに虚しく空を斬り、シーの手が美鈴の身体を掴み持ち上げる。
「ぐがっ……! な、なん、で?」
通常の刀なら霊体に傷一つ付けられない、だが美鈴の刀は魔力の流れる妖刀だ。それがすり抜けた事に美鈴の理解が及ばない。
未熟な彼女ではシーを傷つけるほどの魔力を刀に流せないでいた。
理解は出来ずとも、反撃はできると腕を切り落とそうとするがそれもすり抜けて相手に効果がない絶望と顔を近づけてくるシーにパニックになり刀を振り回す。
だがシーは必死の抵抗を意にも介さず、顔を近づけて大きく息を吸うような動作をした。
「あ、あああああ!!」
瞬間、美鈴の身体から生命力と魔力が吸い上げられる。握力を失い、刀が美鈴の手から離れ床に突き刺さる。
刺さった瞬間、窓を打ち破りコートを翻しながら男が突入した。
「おいおい、どうなってやがる? こんなの聞いてないぞ」
護衛役の男だった、柄の両先に無骨な刃が付いた短槍を携える手をシーの姿を見た瞬間、握りしめた。彼も相手の異常性を即座に見抜き戦慄した。
そんな彼をシーは首だけを彼に向ける。
「何、見てやがる? 化け物」
雷速、まさにそれを体現するほどの素早さ。
美鈴の目にも捉えきれないほどの速さでシーに肉薄し、美鈴を掴む腕を切り裂いていた。
力なく床に倒れ伏せる彼女に男は叱責する。
「なに床に寝てやがる! さっさと逃げろ!」
「わ、わかりました……」
美鈴は力なく返事をして床を這いながらその場を離れ始める。立ち上がる力も残っていないようでなんとか両腕に意識を集中して匍匐前進でゆっくり移動して、後ろを振り返ると信じられない光景が映っていた。
彼女が移動している時、シーの視線は男に釘付けで、足下で無様に這いつくばりながら移動する美鈴の存在を忘れていた。
さっきまでの能力者とは何段も違うほどの魔力を纏った男にシーは夢中だ。
切り落とされた両腕を何事もなかったように再生して襲いかかるが、先ほどまでより同等以上のスピードで動き回る男に翻弄される。
縦横無尽、壁や天井を走る男の動きにシーは追いつけない、男の目的は少しでも時間を稼いで美鈴が屋敷から出て敷地の入り口に止まっている車に乗り込む事を確認したら、自分も屋敷から出てこの危険地帯から逃げる事だ。
この化け物も自分の愛車が時速100キロに至るまで2,7秒しかからないスポーツカーに追いつく事などは出来ないはずと男は考える。
問題はあの少女がどれほどの時間で屋敷外に出られるかにかかっている、その重要人物は未だに廊下を這いずっている。
“無様にスカートの中を見せながら這いずってやがる、まるで芋虫だ” あれが本当に噂の鶴ヶ島家の次期当主なのかと他家の心配をする余裕があるほど男にはシーの動きが単調に見えていた。
さすがに人間一人を抱えて逃げ切れるほどの余裕はないが、まだ数刻は相手から逃げ切れる自信もある。
迫り来る手と手の合間を縫いながら、男は信じられない光景を見た。
こちらを振り返って見る少女の後ろに何体もの怨霊の影が迫ってきていた。
そんな光景を背にして、悠長にこちらを観察する少女に怒りを覚えながら床に突き刺さった刀を投げ渡そうとする。
いかなる状況でも危険が迫る自身を守れるほどの胆力が無ければ、きっと彼女はこの先も生き残る事はできないだろう。
自分達がいる世界はそういう所だ。
生き残ればいくらでもチャンスはあるというのが男の信念だった、ゆえにスピードに特化した魔術を練り上げ、気づけば逃げる事と逃がす事に関しては一流という喜べばいいのか悲しむべきかわからない評価を事務所から受けていた。
ならば彼女がこの屋敷から生きて戻れれば、必ず強くなれる、そういう運命を背負っているはずだと男は少女の運命に賭けて刀に手を伸ばす。
「なっ? 二体だと?」
刀を手にした瞬間、背後から異様な気配を感じた瞬間、すべてが遅かった。
両腕を押さえつけられ、十字に両腕を開きながら宙に浮く。
「てめぇ、分身か」
男が斬り落とした両腕から再生したもう一体のシーが男を持ち上げている。それに抵抗しようと暴れるがビクともしない怪力に男は落胆した。
この状況にではない。『生き残れればチャンスがある』その信念が、もう自分にはチャンスは訪れないという事を告げた事に。
生命力と魔力を吸い上げられながら、怨霊達に部屋に引きずられていく少女を目にする。
大丈夫だ、あの程度の怨霊なら命までは奪えないだろうと男は思う。
ならば、彼女にはこの先にもチャンスはある。
この屋敷での体験は彼女に取って、いい経験が出来たかもしれない。
妖魔の恐怖というモノを、それに何も抵抗する術を持たない者達が苦しめられるという事が今も違う場所で起きている。
その事実を前に、彼女はきっと再び立ち上がってくれる。彼女とはほんの僅かな時間しか過ごしていないがあの瞳を見た時、こいつは強くなると思った。
自分はもう終わりだが、まだ可能性の残る少女に幸あれと、気づけば男は美鈴の将来に期待している事に苦笑する。
「まぁ心の傷っていうのはそう簡単に治せるものじゃない。一人じゃムリでも、仲間が居てくれれば……きっと……」
刀と短槍が床に落ちる音が屋敷内に響いてから夜明けまで、屋敷内は先ほどまでの騒然さが嘘のように静かになっていた。
一晩明けて帰還しない二人を捜索に向かったカラスの人間は屋敷内に一体のミイラと部屋の中で気を失っていた美鈴を見つける。
美鈴はすぐに病院へ搬送され、ミイラと化した男は秘密裏に処分された。
男を死体袋に入れる時、捜索班の人間は不思議に思った、なぜこの男は一晩でミイラにされるほどの苦しみを受けたのに微笑んでいるのかと。
美鈴は病院で意識を取り戻した時、脳内で一晩の悪夢がフラッシュバックする。
「あれは……私にはムリだ……」と弱々しくつぶやいた。
怨霊達の苦悶の声と精神を蝕まれる恐怖に美鈴は身体を縮ませて、肩を震わせながら布団に顔を埋めた。
自分が病院にいるという事は、あの護衛役の男もここにいるのだろうかと美鈴は男の安否が気になり始めていると入り口の扉が動く音が聞こえた。
「何をしている、美鈴?」
涙を溜めた目をこすりながら、声がした入り口を見ると大男が立っていた。
「お父様?」
美鈴の父『鶴ヶ島玄蔵』は果物が入った見舞い用のバスケットをベッド脇の机に置き、椅子に座り美鈴の顔をじっと見る。
「その……あの護衛役は……」
「死んだよ」よく通った野太い声で美鈴に残酷な事実を告げる。
「負けたな、見事に。犠牲者まで出した、次期当主たる者の初任務がこれか? 女を当主にするのは反対だという声を押さえつけてきた俺の面子をよくもこう簡単に潰してくれた」
「はい……」
詫びる言葉も言い訳も思いつかず、ただただ頭を垂れて現当主の叱責を受ける。
自分の不甲斐なさと父の面子を潰してしまった事の申し訳なさで涙が布団を湿らせていく。
父の手が自分の顔に伸びる、きっと頬をその分厚い手で打ち払うつもりだと美鈴は身体をビクッと跳ねる。
「だがな、お前が帰ってきた事。これだけは何よりも代えがたい吉報だった」
「っ……」
それは優しい父の手だった、その手が自分の頭を撫でる。
「わ、私は弱くて、未熟で、臆病者です。もうこれ以上は……」
「よせ」と父の人差し指が美鈴の口の動きを止めた。
「そのつまらん事を言う口を動かす暇があるなら、木刀を振り続けろ。身体が本調子でないなら早く治せるように休め。
男には年の離れた妹がいる、その子を弟子として鶴ヶ島家に迎え入れる。お前の兄弟弟子だ、彼に報いたいと言うなら一人前に育てるのが、お前の贖いになろう」
「ほら、特に柿がいい。昔から柿が赤くなると医者が青くなるという言葉があるくらいだ」
「はい、ありがとうございます」
柿を小刀で剥き始める父を黙って見る、いつも看病をしてくれるのは母親だった、こんな事は生まれて初めての事だと美鈴は思った。
厳しい言葉を投げかけた彼も彼なりに娘を心配しているらしい、それが美鈴の心の痛みを和らげる。
『もしも私が父と同等の力を手にしたなら、もしも私が今度は逆の立場で守り切れるのだろうか――きっとできるはずだ』
『ならば、やらなければならない。私を守ろうとしたあの男の死を無駄にもできない。そうだ、もう私に立ち止まる事は許されない』
女の身である美鈴には父親ほどの肉体を得られるのは難しいだろう、だが剣の才だけは父も祖父も跡継ぎを反対している者ですら認めてくれている。
「お父様、私強くなりたいです、もっともっと」
「そうか」と父は嬉しげに僅かに微笑みながら、最愛の娘に柿を差し出した。
『正直、怨霊の類はもう目にもしたくない。それでもいつの日かこの恐怖を受け入れる日が来れば……』
差し出された柿を口にしようと手を伸ばした瞬間、ベッドの下から黒い何かが視界に映った。
「あらあら、美鈴。もう身体の調子はいいみたいね?」
病室の入り口から母親の声がする。
「なんだ、美鐘。来たのか」
「なんだとは失礼ですね。貴方こそ、病院の名前を聞いた瞬間飛び出してって。一緒に行ってくれてもよかったじゃないですか」
「す、すまない」
仲睦まじく話す両親を下に見ながら、美鈴の息が乱れる。
「あらあら、可愛い黒猫ね。どうやって入ったんでちゅかね~?」と母親が不遜にも病院内に侵入した黒猫を抱きかかえる。
「美鈴、身体の調子はもうよいみたいだな」
「こ、これはその――」
黒い影が美鈴の脳内で、昨夜の怨霊達を思い出させて自然に身体が飛び跳ねた。
天井の隅で、まるでアメコミの蜘蛛男のように膂力と脚力で身体を固定した美鈴は自身の乱心ぶりに顔を赤く染める。
「安心しろ、お前に取り憑いていた怨霊はすべて取り払った――どうやら今回の件は長く引きずりそうだな」
「しばらくは幽霊騒ぎは美鈴には控えてもらうよう、佐藤に打診しておかねばな」と小さくつぶやきながら、玄蔵が自身で剥いた柿を口に入れた。




