第三十七話 クラスメイト熊谷桜華
試験が終わり、退屈な授業から解放されたスポーツ・文化部に所属している生徒達は今までの鬱憤を晴らすように若い身体と頭脳を存分に活かしていた。
校庭でもスポーツ少年少女の声で活気づいている。
その端にあるテニスコート場に、軽快なボールを打つ音が響く。
女子テニス部のマネージャーである熊谷桜華は選手達のタオルやスポーツドリンクを用意していた。
「あっ……」
ふと学校の玄関を見ると、同じクラスの風間エイジが赤城ユイと帰る姿を見つける。
楽しそうに帰る二人の姿は、仲睦まじく下校する恋人同士だ。
その光景に胸が棘が刺さったようにチクチクと痛む。
「あっ、桜華ー。何マネージャーの仕事サボってんだよー」
「桜華の仕事はもう終わっているじゃないか。んっ? あれは風間エイジと赤城ユイか?」
「あーもう、ぼっーとしてるから桜華の風間が赤城に取られたじゃないか」
それを冗談交じりに話しかける友人二人。
軽い口調でボーイッシュなショートヘアを刈り上げた高崎木蘭が「違うぞーまだ部活が終わってないのに、色恋に眼を奪われてる事を言ったんだぞ」と不貞腐れる。
前橋ツツジが長髪を手で流しながら「そうか、それはすまなかったな」と軽く流す。
「やっぱり付き合ってるのかなーって思ったら、つい……ごめんね」
悲哀に満ちた瞳で遠くにいる想い人を見る、そんな彼女を見て二人は嘆息して目の前の哀れな少女を見る。
桜華がエイジを気にするようになったのは、エイジが転校して数日後の話だ。
それまで隣の席の問題児、安元のせいで教室内の空気は最悪だった。ふてぶてしい態度に教師だろうと先輩だろうと噛み付く狂犬。
教室内でもそんな態度は変わらず、少しでも気に食わない事があると怒鳴り、威圧する。そんな最悪の空気の中心部にいる気の弱い桜華はいつも授業中以外は木蘭とツツジの傍にいた。
そんな時だった、あの安元の嫌がらせに動じず、それどころか次の日に安元とその取り巻きがエイジに頭を下げる衝撃的な光景を眼にしたのは。
クラスでは日直の当番が、毎日席順ごとに二人ずつ順番で来る。
その日は桜華と安元が日直の当番だった。
教師からの指示で授業の準備と終わったあとの黒板消しなど、掲示板に掲示物を貼ったりする雑務だ。
安元は相変わらずそんな雑務をこなす気もないように、桜華を無視した。
「安元ーー!!」
教室内に雷鳴のような怒声が響き渡る。
あの安元に怒鳴れる人物は一人しかいない、皆の視線は後ろの席にいるエイジに釘付けになった。
「お前、日直の仕事を女の子一人に押し付けるとはなんだ! しかも小柄の愛らしい女の子が忙しそうにするのを見て見ぬフリをするとは、お前は男じゃない、ただの木偶のバーだ!」
その怒気に、「はいっ! すみませんでしたっ!」と慌てて、桜華の手にするプリントの束を奪い取る。
「謝るのは俺じゃない、隣の……えーと、誰だっけ」
「あっ、熊谷桜華って言います」
「そう! 桜華ちゃんに謝るんだろうが」
そう言われて、安元は桜華に深々と頭を下げて、陳謝する。
その後も、桜華の手伝いをしない度に。
「安元ちゃん!」とエイジに怒られる安元の憤懣は溜まりに溜まり続けた。
そして、授業が終わり黒板を綺麗にしようとした時にそれは怒った。
低身長のせいで、黒板の一番上の文字に全身を伸ばしても届かない。安元は持ち場の黒板の半分をさっさと消して取り巻き達と笑いながら喋っている。
「やすもっちゃん!」と大声を上げた瞬間――
「いい加減にしてくれっ!」と安元の怒声がエイジの言葉を遮った。
「俺はあんたの下に付くとは言ったが、連中のパシリになった覚えは無いっ! こんなのが続くなら、俺はあんたの下につくのなんかまっぴらごめんだ!」
拳を強く握り、始めの時のようにエイジを睨みつける、その姿はかつての狂犬の姿を取り戻していた。
「なぁ、安元。お前の身体ってでかいよな」
その形相の相手と真逆に、エイジの顔は優しさに満ち溢れていた。
まるで、親が子を悟すかのような口ぶりで話しかける。
「なんだよ、急に」
「お前のその恵まれた身体は親からもらったものだろ? 誰かを威嚇したり傷つけたりする為に親御さんはお前を生み、育てたのか?」
安元の家庭は荒れた彼からは想像も付かないほど、父はサラリーマン、母は専業主婦のごくありふれた家庭だった。
何を間違えてか、安元の身体は年々大きくなり父すらも超えるほどの膂力を身につけていた。
何をするにしても、威嚇し吠えれば言う事を聞く人間を見ているのは気持ちが良かった。増長に増長を重ねたのが今の彼だ。
「違うな、お前の身体は両親と天からの賜り物だ。なら、賜り物をそんな自分の為のだけに使うのは勿体無くないか?」
「そ、そんなの知った事かよ」
「いいや、もったいないね。クラスメイトはお前の敵か?」
「……違う」
「そうだ、クラスメイトとは同じ学び舎の同じ教室で俺達の大事な一年を共有する――兄弟、家族だ。兄弟を大事にするのは当然だろ?」
「……」
「お前の恵まれたでかい身体は、人を助ける為にあるのかもしれないな。だって、お前の周りを見渡してみろ。いつでもお前を頼りたい人間はいるはずだ」
「あ、あのっ!」と桜華が思い切ったように喋りだす。
「私、安元君が助けてくれて嬉しかったです。だから、その……もうツッパる事はやめてほしいです」
「なに?」と桜華を見る安元にクラスメイト達が話しかける。
「オ、オレも安元のでかい身体は気になってたんだよ、どうだ?今度柔道部に来ないか?」
「あっずるい! 安元君、バスケとか興味ない? 私、マネージャーしててさ、入学時から顧問に誘え誘えって言われてたんだよね」
男女が入り混じって、安元を中心に輪ができる。
普段は気軽に話しかけられないクラスメイトもエイジがいる事で勇気が出たらしい、その光景にエイジは笑う。
「すげぇ! 客寄せパンダみたい!」
「勘弁してくれ~エイジくん」
「どうだ、人に頼られるって悪い気しないだろ? 自分から動いたらもっと気持ちいいぞ」
こうして、問題児安元は完全に死に、真人間になり変わろうとする安元が生まれた。
安元の満更でもない顔を見るエイジの爽やかな笑顔がいつまでも桜華の頭から消える事はなかった。
そして放課後――その日は桜華のバイト先のシフトが自分一人だった、決して遅刻するわけにはいかない状況である。
にも関わらず、乗るはずだったバスに乗り遅れ、遠くに消えていくバスの背中を見て呆然と立ち尽くす。
不慣れな日直の当番をする安元の面倒を見ていたら、いつの間にかこんな時間になっていたのだ。
「……バイトに間に合わない」
喫茶店のマスターが来るのは六時、五時について一時間前から開店の準備をするのがいつもの最初の仕事だった。
時刻は四時三十分、走っても一時間以上はかかるだろうし、そんなに長く走れるほど自分に体力はない。
タクシーなど呼ぶお金もない、ないない尽くしの現状にただ桜華は顔を青ざめる。
「あれ? 桜華さん、バスに乗り遅れたの?」
声がした方向を振り返るとエイジが「俺もバス乗り遅れちった」と飄々としながら立っていた。
「う、うん……はは」と気のない返事と愛想笑いしか出来ない。
「バスに乗り遅れたのが、そんなにショックだったの? 俺もだよ。今日は早く帰れると思ったのに」
エイジはユイの仕事の手伝いを「今日はいい」と断られたのだ、毎日するものではないのでユイはユイで精霊の使役術を練成するために放課後一番のバスで帰った。
エイジはまだ馴れていない校内を冒険気分で見回っていた、要は暇人だったのである。
「なんで、そんな泣きそうな顔してるの?」
桜華の異変に気づき、顔を覗き込む。それを咄嗟に顔を横に向けて眼を拭う。
「え、俺と二人っきりにいるの、そんな嫌だった?」
「ち、違うのっ。実は……」とバイトに遅刻しそうな事、ここから人力で言っても間に合わない事を説明する。
「それは大変だっ!」とエイジが周囲を見回す、その時――。
「やすもっちゃん! やすもっちゃんと愉快な仲間達カモーーン!!」
校門先から、出ていこうとする安元一派を見つけて呼び出す。
「なんすか、どうしたんすか?」と一派はエイジの呼びかけに走って応える。
「取り巻き一号、そのチャリを貸してくれ!」
「と、取り巻き一号じゃないっす! 鈴木っす!」と出っ歯の鈴木が呼び名を否定しながらも快く自転車を貸してくれる。
「さぁ、桜華さん! 乗りな!」
「エイジ君、これ犯罪だよ!」
そう、公道での自転車の二人乗りは立派な犯罪である。絶対にしてはならないし、良い子は真似をしてもいけない。
彼は異世界帰りの常識知らずなので、こういった馬鹿な行動もなんの負い目もなく出来るのだ。
「バカヤロー!同級生のピンチに親方日の丸にビビってられるか!」
「で、でも……」
「いいから乗れって! ノロマは嫌いだよ!」
『嫌い』その単語になぜか少し傷つく感傷を覚える桜華。
気がつけば、エイジの背中にしがみつき、街へと向かっていった。
流れる光景、追い越される自動車やバイク、通行人からの信じられないモノをみたという視線。
汗まみれになりながらも懸命に自転車を漕ぐエイジの背中に胸の鼓動が高まっていく。
時刻はちょうど五時――身体を大きく揺らしながら息をするエイジから離れて「本当に間に合っちゃった」と声が出る。
「やったーー!!」とエイジが天に向けて両腕を伸ばし、ガッツポーズをする。
「すごい、すごいよ! エイジ君!」とガッツポーツした拳を握り、思わず歓喜の声を上げる。
「あっ……」と自分と相手の顔がものすごく近かった事に気づき、顔が真っ赤になる。
「はぁ~それじゃ、俺はこのチャリ学校に戻して帰るよ。バイトがんばってね」と再びチャリを漕ごうとするエイジに桜華の声が引き止める。
「あっあのよかったら、その……店に来てくれませんか? その汗もすごいし、喉も乾いてるだろうし」
「ついでにお腹も減ってるんだけど」
「あっ、よかったら何か食べてって。まかない料理はいつも私が作ってるんだ」
「ほんと? オムライスが食べたい!」
「うん、私得意なんだよ! いつも弟達に姉ちゃんのオムライスはふわふわトロトロでおいしいって喜んでくれるんだから」
「やった! あれだよ?ケチャップかける時は「おいしくなーれ、萌え萌えキュンッ」ってやってよ?」
「うちはそんな店じゃないよー」
一ヶ月以上たっても色あせない思い出を頭で再生する桜華の顔が和やかになる。その記憶に夢中になり周囲は見えず、声も聞こえない。
「何を思い出してるのか知らないけど、幸せそうだな」
「そんなにあいつが気になるならよー。赤城に直接、風間が付き合ってるか聞いた方がいいんじゃないか?」
「ふむ、木蘭の割にはいい提案だな」
「木蘭の割には、は余計だよ」
ぼっーとしてる桜華は二人の声が聞こえていない。
「なぁ、桜華!」
「ひゃっ! え、え、なに?」
急に現実に引き戻されて、戸惑う桜華に二人の提案を聞かせる。
最初はやめとこうと否定していたが、ユイとの関係が気になるのでそれを了承する。
「よっしゃ、決まりだな」
エイジとユイの関係を明日の昼休みに聞き出そうと決定する三人娘であった。




