第三十六話 その虎、凶暴につき
「おじいさま?」
憤怒の鬼だった美鈴の顔から、怒気がなくなりいつもの凛とした清廉な少女に変わる。
その原因は、今二人が目にしている矮躯の老人だ。ミイラのように細い皺だらけの終わりが見えた余生をただ過ごしているはずの人間が爛々とした活力に満ち溢れている。
鶴ヶ島飛虎が、しっかりした足取りで道場内へ入ってくる。
玄関で出会った時の気の抜けた雰囲気は何処かへいってしまった、目の前にいるのはかつての剣聖『魔殺の飛虎』である。
「美鈴、ようやく壱を斬り、零に至る道が見えたようだな」
「わ、私にも見えた気がします。ですが、ただ考えなしの動き、技とは程遠いものかもしれません……」
「お主は剣を振るう時に考えすぎる癖がある。一秒もあれば達人は、すぐに詰めてくる。故に秒を刻むのだと何度も教えただろう」
「はい」
「技に至るのはその後だ。まずは今の動きを身体に染み付かせよ、決して無駄なものにはならぬ。お前はやはり剣の申し子だ」
わかりましたと深々と頭を下げる美鈴、自分が生まれてから一度も剣を語る事のなった飛虎の指導を受け、褒められた事に涙を浮かべそうになる。
「エイジ君と言ったかの?お主のおかげで美鈴はひと皮剥けた、礼を言う」
「いえいえ、こちらこそ」
「しかしだな、この鶴ヶ島家の敷地内でワシの孫を辱めた事だけは許せん」
飛虎が木刀を持って、エイジと対峙する。
ニタァッと喜びと怒りが複雑に絡み合った笑顔でエイジを見る。
その顔色に寒気を感じる、目の前にいるのは老人ではない。怪物だ、これは自分と同じ怪物の匂いだ。
「迷い虎よ、ワシと一本試合うてくれんかの?」
「まぁ、いいけど。じいさん途中で倒れるな……よ?」
木刀を持つ老人の気配が変わる、エイジの前に翼を生やした虎が立っていた。
老人の気合に、不意打ちを喰らったのだ。
「じいさん、挑発的じゃねぇか」
その不意打ちはエイジの闘争心を高揚させるには十分だった。
「なんだ、これは……?」
美鈴の視界に信じられない光景が見えていた。
飛虎はすでに隠居して、たまに道場に顔を見せてもすぐに離れの自分の部屋に戻っていた。
決して、木刀を持つ事はなく。ただ、ぼっ~と縁側で茶を啜る平和な日々を過ごすどこにでもいる老人だった。
昔、そんな飛虎を見ていて不思議に思って父に聞いてみた事がある、「おじい様はどんな剣を振るっていたのですか?」と。
縁側で静かに茶を啜る父は、何か末恐ろしい物を思い出したかのように固まり、こう言った。
「修羅の剣だった」
その時は何を言ってるのかよくわからなかった。ようやく十年の時を隔て、その意味を理解する。
神速の剣同士がぶつかり合う。重い衝撃音は道場中に響き渡り、美鈴の鼓膜を激しく揺さぶる。
お互いの力を絞りつくした試合は過激さを極める。
エイジの顔から余裕の顔が消え、真剣そのものだ。美鈴との試合はエイジに取っては遊びだったのかもしれない。
その余裕を飛虎はかき消した、剣撃がひどく重い。ぶつかり合うだけで木刀が悲鳴を上げる。
剣を避けて姿勢を低くしたまま飛虎の足を払おうとするがその足を掴まれ、運動エネルギーを利用して投げ飛ばされる。
美鈴の眼から飛虎が消えた、厳密には見失ったのだ。
見事に着地して、剣を構えるがエイジの視界からも飛虎は見えなくなっていた。
瞬間、背筋に悪寒がする。
「ほぉ~今のを防ぐか」
エイジは前に踏み出して、木刀を背中に回し、飛虎からの真向斬りを防いだ。
危うく、背中を叩き切られる所だった。この老人が持つ木刀はもはや真剣そのものだ。一度でも当たれば、その部位は破壊を免れないだろう。
再び、せめぎ合うが、いくら打ち込んでも決着が付かない。
何度目かの打ち合いを最後に、エイジは間合いを取る。
「じいさん、その皮剥がしたら緑色の皮膚が出てくるんじゃねぇか?」
「ほっほっ。お主こそ、その皮を剥いたら鱗でも出てくるのではないか?」
「何言ってやがる、俺はいつでもズル剥けだっ!」
エイジが踏み出そうとした瞬間――
ゴーン、ゴーンと道場の壁に掛けられた時計の鐘が鳴る。
「ここまでか、お主そこまで動いて汗一つかかないのか」
「じいさんの殺気に寒気がして、汗なんか流せるかよ」
大した奴じゃな、と飛虎は笑い、美鈴を見る。
その顔からは表情が消え、冷たさすら感じられる威厳を持って孫に対して忠告する。
「美鈴、お前はこいつの剣を真似るでない」
「え?」
「こやつの剣は邪剣じゃ、鶴ヶ島の剣は退魔の利剣。お前が望むべき剣ではない」
「ですが、エイジの剣を見て鶴ヶ島流にない輝きを見たのです、おじいさまにもそれは――」
「新しい物がいい物とは限らん。お前には才がある、今は壁にあたってもがいてる所だろうがな」
言っても素直に聞かぬ孫に少しため息をついてから、重たい口調で言う。
「こやつの輝きは魔の物だ」
「……」
悲しそうな顔をする孫に少し心を痛めたのか、飛虎の口調は少し柔らかくなった。
「だが、我らの剣はこういった手合いを打倒すべきもの。こやつと何度も挑み、勝て。さすればお前にも真の輝きが見えるはず」
そう言って木刀をかけ直し、飛虎はまた気の抜けた顔に戻る。
玄関の方から女性の声が聞こえる。美鈴の母『鶴ヶ島美鐘』が帰宅したらしい。
「美鐘さーん、飯はまだかのー?」
そう言いながら、よぼよぼの足取りで飛虎は廊下へ消えていった。
「はいはい、ちょっと待っててくださいねっ。美鈴ー誰かお客さんが来てるのー?」
高貴さと艶麗を兼ね揃えた美人の女性が入ってくる。
美鈴以上の爆乳と経産婦とは思えない身体の流線、エイジの瞳を奪うには十分な威力を持っていた。
「あら、美鈴が男の子を連れてくるなんて珍しいわね。彼氏かしら? いいわね~青春ね~」
「お、お母様」と美鈴は顔を赤くして、違いますと首を横に振る。
「うちの子、気が強くて色々わがまま言っちゃうけど許してあげてくださいね」
美鐘の母性溢れる優しい口調に、エイジは服装を正して背筋を伸ばし爽やかな少年を演じ始める。
「こちらこそ美鈴さんにはお世話になりっぱなしです。それにしても鶴ヶ島先輩にこんな素敵なお母さんがいるとは……いえ、鶴ヶ島先輩を見ればお母様も相応の美貌をお持ちなのは当然でしたね」
「あら~やだわ~。こんなおばさん捕まえて」
嬉しそうに美鈴に振り返り、「どうしようかしら~高校生を魅了しちゃうなんて私もまだまだいけるって事かしら」とキャピキャピしながら話す。
その喜びに合わせて振られる臀部に鼻を伸ばすエイジを見逃さなかった美鈴。
「風間君、もう遅いから帰りましょうね」と美鈴が帰宅を促す、湧き上がる怒りを抑えながら母の手前、感情的になる事だけは抑える。
あの飛虎と対等に渡り合い、自分に剣の道を開いてくれた恩人に好意さえ抱いていたというのに、あろう事か自分の母に色目を使うのは沸騰点を超える狼藉だがそれでも美鈴は耐えている。
「あら~せっかくだから、お夕飯食べて行ったら?」
「いいんですか! あぁなんて素敵な人なんだ、女神、あなたこそ女神だ!」
芝居じみた口調でキラキラと眩しい少年の笑顔で美鐘の手を取る。
「女神なんてほんと困ったわ~。今日はお母さん張り切っちゃいそう」と頬に手を当てて、照れて笑う美鐘にエイジの眼は虜になっていた。
「えーぜひ張り切ってください!」
その様子を見ていた美鈴の顔に血管が浮かび上がり、食いしばった口を解放する。
「いいから、帰れー!!」
「ひぃいいいい!!」
木刀を持ち、エイジを追いかける美鈴を見て母が笑う。
「美鈴が人前であんな感情的になるなんて、いいボーイフレンドを見つけたわね」
「わかりました、帰ります! 帰りますから!」
木刀を白羽取りしながら、恐怖に顔を染めるエイジ。
「ああ、そうしろ。今日の事は感謝する、だから命までは取らん」
「ええ、ありがたやありがたや」とエイジは荷物を持って、急いで道場の出口へと走っていく。
「そんじゃ、先輩。また明日! あとお母さん、絶対夕飯食べに来ますから!」
「ええ、いつでも来てね」と微笑みながら手を振る美鐘に、面白くなさそうに「やはり、胸なのか。それとも大人の色気なのか」とぶつぶつ文句を言う美鈴。
美鐘がそんな美鈴に優しく諭すように話しかける。
「彼、いい子じゃない」
「あんなスケベな奴のどこがいいんですか」
「武家の家に嫁いで長い間居るとね、見えてくるのよ」
「何がですか?」
「本当に強くて優しい人間かって事」
「まぁ、普段はあんなですがここぞという時に頼りになる男です」
「なら、大事にしなきゃね。それから貴方、ブラ外れてるわよ」
自分の胸元を見て、汗で濡れた道着の上から胸の先端が尖ってる事に気づく。
それを見て、今までエイジに見られていた事に羞恥心を覚える。
「や、やっぱりあいつは最低ですっ!」とエイジに対して好感度が上がったり下がったりする美鈴であった。




