その976 『信ジラレナイ』
逃げられるものなら逃げたかった。しかし、視界が自分の意志に逆らって回るというのは、想像以上に自由が効かなくなるものだ。セセラウスの法陣の描き終わる音が聞こえても、驚くほど抵抗ができないでいる。
そもそもが卑怯だと思う。七人も『異能者』を連れている時点で敵うはずがない。対峙する前から人の心を呼んで筒抜けの状態にしているので、交渉などないも同然だ。
相手が悪すぎる。それが、ブライトの意見だ。
「さて、ではあなたのよく動くだろう舌をいただきますか」
殆ど会話なんてできてないようなものなのに、勝手におしゃべりだと決めつけないでくれと言いたくなる。
「おやおや、それなら、他の部位でも良いですよ。ただ、条件を満たすものに限られますが」
あくまでにこやかなままのセセラウスが怖かった。きっと自分の勝利を確信しているのだ。ブライトが何もできないでいることをよく心を読んで把握している。
確かに行動も感情も相手の記憶まで、ほぼ全てが支配下にあれば、心配などないだろう。明かされていない謎を解くのが少々人より好きという話だったが、これはとても退屈な展開に違いない。
「 退屈、ですか?」
不意にセセラウスが言葉を繰り返した。
「確かにこの程度かという思いはあります。ブライト・アイリオール殿といえば、魔術において右に出る者はいないと聞きます。だから、正直失望しています。他の『魔術師』と大差がないとね」
それから思い直したように、セセラウスは続ける。
「とはいえ、魔術に限定しての話ですから『魔術師』としてはこの程度でも納得、そうも思いますね。ですが……、記憶を拝見する限りでは、どうも魔術だけが取り柄ということもないようです」
ブライトの記憶を読んだからこその警戒だろう。
「……とはいえ、思考まで読まれて何か企む余地があるようには思えませんが」
「……たとえば、なん……、だけどさ」
セセラウスの思考を打ち切る形で、ブライトは呟いた。意識が切れそうになりながらも、一気に吐き出す。
「並列思考が得意な人間の思考を、後ろの人たちはどれぐらいトレースできるものなのかな?」
そのときのセセラウスの目が、忘れられない。はっきりと侮蔑の目から警戒のそれに変わったのだ。
「……何を。いや、彼らは全ての思考をリアルタイムに伝えています。私はそれを、いいえ、あなたの記憶の情報さえも追加で受け取って、残さず処理しています」
「けれど、優先度を決めているわけではない、よね? 思考の……、先の先を読んだそれを遅れて読んでいるとしても、気づけない」
とはいえ、指先で魔術を使おうとするのを防ぐぐらいの優先度を、『異能者』たちは持っている。だから、すぐさまの抵抗ができないでいた。
「あたしは、考えるだけなら相当量のことができると、……自負してるよ。何故って、魔術を精密に動かすには、先の先を読んでたくさん考えないとできないことだから」
話すのも辛いが、敢えてたくさん口にすることでセセラウスに与える情報を増やす。警戒したセセラウスが話しながらも『異能者』たちから情報を受け取り懸命に考えていることは間違いないからだ。
情報を解釈、即座に会話に移すセセラウスは老人とは思えぬほどの思考力の持ち主である。恐らくそれを可能にしているのが、『異能者』の一人、セセラウスが『支える』としか言わなかった、要の人物だ。
「何を考えて……」
「おかしいな? あたしの考えていることは筒抜けなんじゃないっけ?」
問い返せば、セセラウスが絶句する。
「あたしもこれでもいろいろと実験するのが好きでね。並行して考えた場合どこまでを認識できるのかチェックしていたんだ。思考って、うまく言えないんだけど層みたいなっていて、更に横にも広げられる。だから、さてどこまでの思考を伝えきれるんだろうってね。言うならば、情報伝達の限度を試した感じなんだけど」
ブライトはにこっと笑い返した。
「駄目だね。言うほど精度ないよ、それ」
セセラウスの驚愕の表情。それを見届けたから、隙があるとわかった。だからすぐさま、ブライトがしたことは目の前に描かれた法陣を起動させることだった。
「信じられない……、まさかこれも」
「選ぶなら、欲張りの選択肢だって思っていたんだ」
泥の魔術を起動し、ブライトの前にある氷へと発動する。見たばかりの魔術だったそれを自分のものとして起動してみせたブライトに、セセラウスが再度絶句する。記憶を見ただろうに、まさかという思いがあったらしい。そのため、これが二度目の思考の空白。
――――思考の遅れは、情報伝達の遅れに直結する。
泥の魔術を易易と発動させたブライトの狙いは、後方の異能者たちの地面。氷がすぐさま泥へと変わっていき、足場が崩れていく。
ブライトを縛っていた痛みが一気に解放されていくのを感じた。
だが、ここで地面が崩れたら、その手前にいるセセラウスとブライトたちも当然巻き込まれる。落ちた先は奈落の海ではないにしろ、遥か遠い地面だ。まず、助からない。
「自滅するつもりか!」
叫ぶセセラウスに、ブライトは首を横に振る。崩れゆく氷のうえで、叫んだ。
「セラ!」
「はい!」
時間を置かずに、ブライトのすぐ側で声がした。飛行ボードに乗ったセラが、ブライトを攫う。
崩れる氷に取り残された、セセラウスの絶句の顔を捉える。本日三度目だ。




