その956 『雲ノ魔物』
「とっ、とにかく、その魔物について詳しく!」
稲光と轟音によって揺れる飛行船のなかで、必死に舵を握りながら、ブライトは情報を求める。シェイレスタの周辺の砂漠に出る魔物ならば、知識として知っている。どれも恐ろしく厄介だという印象だった。
だが、空の上も相当に厄介だ。魔物除けの類はしっかり準備していても、どうにもならないケースに既に数件遭遇している。魔物相手に絶対はないとわかっていても、愚痴は言いたくなる。それにもしここで飛行船が損傷を受けようものなら、ブライトたちは到底期日までに目的地にたどり着けない。
「『雲の羊』という種類です。見た目が白い雲そっくりなので遠目には見分けがつきません」
雲と聞いて、ブライトは揺れる船の中外を見渡す。雷鳴さえなければ、淡い空から優しい日の光が降り注ぐ、平和そのものの光景だ。
「雲なんて見えないんだけれど!」
正確には薄っすらとした薄い雲の膜ならば周囲にたくさんある。だがそれが魔物の群れに見えるかと言われたら、答えはNOだ。
「恐らく頭上か真下です。その魔物の周囲は雷が発生しやすいんです」
魔物がブライトたちの飛行船を狙って雷を打ち落とそうとしていたら、きっと手の打ちようがなかっただろう。実際には、魔物の群れの周囲に雷が発生しやすくなっているだけなのだという。
目の前を雷鳴が横切っていく。
飛行船の速度を上げながら、その光に打たれないようにと懸命に祈る。たとえ神がブライトを嫌っていても、どうにもならないことに対しては祈らずにいられないのが人間の性だ。まして、急に落ちるかもしれない雷を避ける手段など持ち合わせてはいない。
そこまで考えて、ブライトは手を止めた。
「……ちょっと、操縦を代わってもらえるかな」
「ブライト様?」
疑問を口にしながらもセラは大人しく操縦を交代する。詳しく説明する時間も惜しく、ブライトは荷物からノートを取り出した。以前泥まみれにしたので予備は少ないが、今は新たに描き起こすべきだと、自身の心の声が告げている。そうしてすぐさま法陣を描き上げた。
「一体何を……」
セラの疑問の声が耳に届く。ブライトはその場でくみ上げた法陣の通りに、魔術を発動させる。
――――現れたのは、水だ。
その水は意思を持って扉の隙間から飛行船の外へと流れていく。船体はおろか窓にまで包み込むように流れていくと、セラから悲鳴が上がった。
「ブライト様、これでは前がよく見えません!」
「よっぽど何もなかったから、そのまま進んで大丈夫!」
素直に指示に従ってはくれるものの、セラとしては不安のようだ。ちらちらとブライトへ視線をよこしてくる。
「何をなさっているんですか」
「……いや、神様に祈るだけなのは、あたしの性に合わないんだよ」
だからこれは、少しでも確実なものにするためにブライトが出した案だ。セラからの答えになっていないという視線を受けて、詳しく説明する。
「飛行船全体を薄い水の膜で覆えば、もし雷が落ちてもこの水の外側になるから衝撃をいなせると思うんだよね」
実際のところ、飛行船自体にも多少の放電機構はついているだろう。だが、それは嵐の中で飛行船を操縦した際に落ちにくくなるという程度のものであって、意図的に周囲に雷を引き起こす魔物の頭上か真下にいるのでは、話が違ってくる。
そうすると、飛行船を無傷で済ませるためには、魔術を使うのが手っ取り早い。ましてや今回は、動きの速い魔物を相手にしているわけではない。魔術を放つ余裕がある。そしてこの魔物はただブライトたちの近くを通っただけで、ブライトたちを襲うつもりはないのだ。
「……よく思いつきますね」
呆れたような顔をするセラは、ようやく納得したように操縦に集中する。その様子をみて
「まぁ、ぶっつけ本番だから怪しいけれどね」
と心の中で呟いた。
水の魔術をどこまで精度よく操れるかと言われると、実は中々に難しい。これが動かないものならばいざ知らず、相手は常に飛んでいる飛行船なのだ。風の抵抗も受けるので、外の条件がややこしすぎる。光を操作して姿を消す魔術も相当に高度だが、今回は風も起こさないといけないのだ。さしものブライトでもかなり高度なものになる。
結局、神に祈りをささげるしかない状況であることは、あまり変わらない。
「ブライト様。雷鳴が落ち着いてきましたね」
セラの言葉に、ほっとする。
「油断は禁物っていうし、この状態でもう少し続けるね」
続けるという言葉に何か気づいたらしい。セラの視線が来た。
「……もしかして、ずっと魔術を放ち続けていますか?」
「あ、うん。水が凍るから」
イクシウスは寒いのだ。そうでなくとも、空というのは基本的に寒い。水の膜など張ったら、たちまちに凍ってしまう。そうしないためには、水を絶えず震わせるよりない。勿論、闇雲な振動では飛行船の航行に影響するので、ちゃんと考慮をしたうえでだ。そのために法陣を増やし、放ち続けている。ブライトがセラの操縦を交代できない理由だ。
「本当のこというと、かなり頭を使うから補助してくれるような『古代遺物』が欲しいこの頃……」
「一刻も早く魔物から離れます!」
既に全開だろうが、セラが珍しく慌てたようにそう発言した。




