その945 『魔物二喰ワレル』
次の瞬間、魔物の動きが空中で静止した。まるで時間が止まったかのように、ブライトたちに飛び掛かろうとしたその姿勢のままでいる。勿論、そう見えているだけで、実際に止まったわけではない。正しくは、ブライトのノートから溢れた風が魔物の勢いを全て封殺したのだ。
一拍遅れて魔物たちが残らず後方へと飛ばされていく。それらを確認する暇もなく、セラに腕を引かれた。最も魔物の少ない地点へ走ろうというのだろう。
「見えた? 真っ黒な狐みたいだったけど」
走りながら情報を共有する。
「私には黒い虎に見えました。数は七体でしょうか」
どうやら一致しているのは、黒いことだけのようだ。何せ、ブライトが数えた限りでは魔物は六体いた。
「右!」
茂みの音から判断し、ブライトは叫ぶ。セラが盾を右手に構えたそこを狙ったかのように、茂みから黒い狐が飛び出てぶつかってくる。ブライトの魔術から復活し、もう追いついてきたのだ。人を相手にするときとまるで違う速さに、内心で絶句する。
歯を食いしばり魔物の重みに耐えるセラを見て、魔術を使っている時間がないと判断、すぐさま鞄を漁る。
「えいっ!」
投げたのは、魔法石だ。ぶつかった途端に光を浴び、黒い狐の目を焼いた。狐が、
「キャン!」
と喚くので、ブライトはこう結論づける。
「黒い犬かも!」
それが分かったところで、どうにかなるものではない。むしろ犬ならば、より凶暴な歯を持っている可能性もある。
「ブライト様!」
腕を引っ張られ、庇われたと気がつく。抱き寄せられるタイミングで、セラの腕越しに衝撃があった。
「セラ!」
振り返ると、セラが構える盾の先で黒い犬の凶暴な顔つきが見えた。その口から臭い息が溢れ、目がチカチカとしてくる。
ただの息ではないと気付き、ノートを広げた。本当は魔法石を投げたかったが、体勢が悪く鞄に手を伸ばせない。故に遅れて法陣に最後の線を刻み、魔術を叩き込む。
光線を目に浴びて犬が大きく仰け反った。
強めの魔術が効いたと喜んだのも束の間、犬のすぐ後ろから別の犬が食らいついてくる。二体分の犬の体重は、ブライトを抱き寄せたままのセラでは耐えきれない。
あっと気付いたときには、背中に地面を感じた。セラ越しでもはっきりと分かったのは、泥濘みから泥が跳ねたせいもある。
「くっ」
重さに耐えるセラの声で、セラにはブライトと魔物二体分の重みが乗っているのだと意識する。魔物は狐や虎と間違えるほどの大きさだ。こうして見ると、前者よりは後者に近い。ここで更に盾に飛びかかられたら、魔物に喰われる前にセラが潰れてしまう。
早くセラから退けたかったが、ブライトもセラと一緒になって盾を掴むのがせいぜいだ。片手でいつの間にか閉じてしまったノートに一線を入れるのも辛く、代わりに魔法石を取り出そうとする。そこで、指先が言うことを聞かないことに気がついた。転がっていく魔法石の音を聞きながら、犬から吐かれる息をいつの間にか結構吸ってしまったのだと思い当たる。魔物には人間の行動を阻害する力を持つものが多い。犬から吐き出させる息は、人の目をチカチカさせるだけでなく身体を麻痺させる効果があるのだろう。
更に盾に重圧が掛かり、セラのうめき声が酷くなる。ブライトの目には、犬たちの赤い目が複数飛び込んできて、くらくらしてきた。強い魔術を放ちたいところだが、この状態では法陣を描くのもやっとだ。盾の隙間からブライトを食い千切ろうとしてくる魔物の勢いを懸命に押さえつけながらも、無理やりにページを開いたところで、
「セラ!」
と叫んだ。盾にヒビが入っているのを見つけたからだ。セラからは返事がない。かなり余裕がなさそうとみた。
セラの腕には跳ねた泥がついている。それを指で拭き取ってノートに最後の一線を描き込む。
「いっけぇ!」
法陣がどうにか完成した。光ったそこから風が生まれた。盾を通り抜けたその力が、魔物を押し返す。
一気に盾が軽くなった。ブライトはそれを押し返すようにして横に転がる。途端に服が泥だらけになったが気にしている余裕などない。それよりも早く身体を起こさなくては次が来る。
「セラ、意識はある?」
声を掛けながら地面に転がっていた魔法石のうちの一つを拾って、今まさに飛びかかろうとしていた魔物へと投げる。ブライトに投擲のセンスはないので場所は大きく外れていたが、ブライトの指示に従った優秀な魔法石はその場で光を放ち、犬の目を焼く。多少できた隙の間に魔術を再度放とうとし、
「まずっ」
泥の被害が意外と大きいノートに絶句した。これでも庇ったつもりなのだが、閉じたページの隙間から泥が入り込んでいたようだ。急ぎ使えるページを探しながら、セラの咽る音を聞く。見ている余裕はないが、息がしづらいほどに圧迫されていたということだろう。セラに盾で防ぐ余裕はなさそうだ。
犬の唸り声がすぐ近くに聞こえる。ブライトに魔術を使う余裕はなかった。落ちている他の魔法石を拾うほうが得策と考えて手を伸ばす。その間にも、魔物が自身の無防備な背中へと飛びかかろうとする気配は感じていた。
だが、間に合うように祈るしかなかった。そして、祈りは決して常に叶う程優しいものではない。
気がついたら、背中に重みを感じ、再び地面に突き落とされていた。顔面に冷たい地面を感じたと思った刹那、肩に強烈な痛みを感じて悲鳴を上げる。
――――喰われた。
血の温かい感触に、実感する。今ブライトはなすすべもなく魔物にその肩を齧られたのだ。牙はブライトの服など簡単にやぶき、その下の肌にいとも容易く突き刺さる。
逃げようとしても、無理だった。痛みに耐えきれないブライトの身体は、声を上げるばかりで背中の重みから逃れられない。
――――あぁ、死ぬんだ。
なんて呆気ない終わり方だろうと感じた。続いてやってきた痛みに声も上げられなくなり、同時に痺れを強く意識する。指先の感覚が鈍くなるだけで済んでいたはずの痺れは、この時になってブライトの痛覚を鈍くした。痛みが和らぎ、頭にモヤが掛かったようになる。
きっとこれは魔物の慈悲なのだろうなどと、鈍い思考で呑気に考えた。人が少しでも痛みを感じないように、わざと麻痺をさせて喰らうのだ。そうすれば無駄な抵抗もされず、人もまた穏やかに真の海にいける。
――――あたしの行き先は、穏やかとは無縁だろうけれど。
これまでにしてきたことを考えたから、この死に方は違うなと直感した。ブライトの死に様はもっと別の場所だ。多くの人間に死を望まれ石を投げられるような、そうした生き方しかしていないのだから。
銃声が聞こえたとき、ブライトの意識はもうどこかへ彷徨いかけていた。けれど、その時のその思いだけはブライトという存在を繋ぎ止めていて、片目に映る光景をぼんやりと映している。
そこには、複数の銃を構えた男女がいた。統一した服装をしていないから、どこかのギルド員だろう。魔物を蹴散らすように発砲し、ブライトへと駆け寄ってくる。




