その940 『先行キ』
「じゃあ、ギルドに早速伝えに行く。その液体は詳細がはっきりするまで触るな。そこの変な紋様も念の為触るなよ」
「うん。お父さん、任せて」
宿の主は女が持ってきたロープで男たち三人を縛り上げると、意識のないもう一人を背負って部屋を出ていく。あまりに手慣れた様子に感心した。客がブライトでなければ、この宿屋に狼藉を働こうという愚か者は現れなかったことだろう。
彼らが廊下の先に消えた頃を見計らって、女は頭を下げる。
「こちらの不手際ですみませんでした。新しい部屋をご案内します」
女のその言葉に、ブライトは首を傾げる。
「満席なんじゃなかったっけ?」
「えっと、実はそのとおりでして。申し訳ないのですが、私の部屋でも良いですか?」
ぺろりと女が舌を出す。可愛らしい所作だが、笑えない。
「さすがに申し訳ないような? 寝るところがなくなっちゃうよね」
「もう時刻が時刻ですから、私は朝支度に入ります。ですので、お気になさらず。小物類も特においていないので、部屋は皆さんが宿泊されているところと変わりません」
時間と言われて、時計を探す。気を利かせた女が
「今は三時です」
と答えた。
「そんな時間から、朝支度?」
さすがに嘘っぽかったが、気を遣わせないためなのだろう。女は平然と答える。
「目が冴えてしまいましたし、他のお客様も目を覚ましてしまったようなので」
何か申し訳ないと思ったが、どうにもならない。そう考えたところで、
「大丈夫です。他のお客様の分まで、お代はあの人たちに払っていただきますから」
と答えがあった。ギルドに突きつけられた男たちの弁償はかなりの金額になるようである。
部屋に関しては、そこまで言われてしまったら断る必要もないので、大人しく女に従うことにした。すぐに部屋まで案内される。中に入ると、三人分のベッドのある大部屋だった。
「一つは私が使ってしまっています。残りは空いているのでそちらをお使いください。汚くて申し訳ないです」
汚いというが、ベッドには使ったあとさえなかった。
「気になっちゃったんだけれど、余ったベッドの一つって、あのお父さんの?」
「あぁ、父は別の部屋なので安心してください。これは母と妹のものだったんですが、勿体なくて予備として綺麗にしておいたんです」
過去形であることが気にはなったが、言及はしないでおいた。母と妹は亡くなっているかもしれないし、ただ訳あって別居しているだけかも知れない。けれど、もし前者であればセラには聞かせたくないと考えたのである。
「では、落ち着かないとは思いますが、ごゆるりとお過ごしください」
そう言って、女は部屋の外に出ていく。静かになったのを見計らって、念の為部屋を確認した。
室内の装飾は先ほどまでの部屋とあまり変わらない。けれど、ドレッサーやタンスには、生活臭がある。貴重品類は置かれていないようで、そのあたりはさすがにしっかりしているようであった。
とはいえ、ここで落ち着いて寝ろというのも難しい。案内できる部屋が他にないがための苦渋の選択なのだろうが、他人の生活跡のある部屋で休めというのはブライトの感覚だとどうなのかと思ってしまう。
「ギルドじゃ、こういうのは当たり前なのかな」
断って船で休んでもよかったが、宿でさえ襲われたのだから二人しかいない船に戻る気力はなかった。深夜三時に出歩くほうが危険だと判断したわけである。そうなれば、腹をくくるしかないのであろう。
「じゃあ、もう一度お休み」
セラにそう声を掛ける。毛布に包まって目を瞑ると、黒い液体に溶けていく男の顔が浮かんだ。
悪寒が走って、歯が鳴りそうになる。あんな風にセラの娘も死んだかもしれないと思うと、もう全く寝付ける気はしなかった。
なんだかんだで数時間ほど眠ってしまったあたり、ブライトは意外と自分が図太いのだと知った。
身体を起こすと、セラはもう起きていて髪を梳いているところであった。
「セラ、おはよう」
「おはようございます、ブライト様」
見た限りではあるが、顔色は悪くない。化粧で誤魔化した部分があるにせよ、多少は眠れたのだろう。
「あたしも支度しようかな」
起き上がり、支度を始める。途中セラに髪を梳いてもらいながら、口紅を塗っていると、セラから声を掛けられた。
「今日はどう過ごされるおつもりですか」
今日のことを考える余裕がセラにあるとみて、答える。
「一応宿の人たちに昨日の状況から何か進展があったか聞いてから、早いところ飛行石だけ調達するつもり。可能なら午前中にギルド船を発とう。どうも長居はすべきじゃなさそうだし」
長く留まれば留まるほど、ブライトの存在がばれかねない。八百屋で買い物一つするだけで漏れたのだから、早めの移動に越したことはないという意見である。
「目的地は、昨日ギルドで話題に出ていた?」
カルタータについての記述があるという遺跡だ。
「うん。まずはその遺跡に行こう。二人だけだから、危険だと判断したら即帰るけど」
下手に人を雇うのは逆に危ないという判断だ。二人だけのほうがまだ安心である。
「承知しました」
ちょうどセラがブライトの髪を結び終わったところだった。ブライトは礼を言って立ち上がる。
「とはいえまずは朝ご飯かな」
先行きはどうにも怪しいが、腹ごしらえが何よりも先である。




