その895 『天才魔術師ト大切ナモノ』
法陣を二つに分かつ魔術は、実は何も珍しいことはない。ブライトはよく使う。何度も使っているうちに光で姿を隠す魔術の次ぐらいには早く描けるようになった。それは、指を骨折して当て木をしている今でもだ。ノートに予め仕込んだ魔術とは全く別に、それだけは引けを取らない自信がある。
「簡単なことだよ」
だからジェミニの驚きはそこにはない。あるとすれば、ジェミニが使った魔術をブライトが再現したことだろう。我が家のなどと言っていたから、数年掛けて覚えるはずの魔術をブライトが使えるはずがないと踏んでいたのだ。全くよくある勘違いである。ブライトがジェミニの家庭教師ならば根本的に間違っていると叱ったところだ。
魔術書がないと魔術は覚えられないという話がある。それは、魔術書に法陣の描き方が載っているからだ。そして法陣を描いただけでは魔術は使えない。魔術書を読んだだけでは魔術を習得できない理由として、魔術には成り立ちがあり、法陣を発動させるのに条件があることが挙げられる。
そもそも、この世界には数多の力が溢れている。太陽から注ぐ光や熱、雨をはじめとした水、飛行船の航行にも影響を与える風、砂漠をはじめとする大地の熱。人の動きや思いさえも力の一つだ。その力の存在を理解しなくては魔術には至らない。何せ魔術とは、元々ある力を自身が発現したいように変換や転移をしてはじめてその場に現れるものだからだ。全くの無からは、何も生まれないのである。
そして前述したように、魔術には成り立ちがある。それを理解すれば、魔術の傾向も分かる。数を踏んだブライトだからこそ、ジェミニの使う魔術がどの時代によく使われたものなのかまで思い浮かぶ。
改めておかしな話だ。魔術書を読むだけでは魔術は習得できないことは皆認めるのに、では何故魔術が使えるようにならないのかその理由を考えない。分かってしまえば、単純だ。魔術は何よりも自然に近く、それでいて人の手が加わった純粋で興味深いものなのだ。
「あたしが天才魔術師だからだよ」
故に、そう高らかに宣言した。
背後に魔術の光を掲げ、ジェミニへと振り向いたブライトは意識を集中する。
ジェミニが放ったばかりの魔術が、今度はジェミニに向かっていった。なすすべもなく、ジェミニが光に囚われていく。
これでチェックメイト、とは思わなかった。一つ間違えれば、簡単に状況は覆るということをよく理解していた。
「さて、ジェミニとって最も大切なものは何かな?」
人の心を操作する魔術はブライトの知る限り三つある。一つは感情の操作。二つ目は記憶の操作。そして三つ目は本人の記憶のないところで命令や指示をだしておくというものだ。ジェミニは敢えて相手から大切なものを引き出し、それを別のものにすり替えることで、相手を服従させる。
ブライトが仕掛けるのであれば、ジェミニの最も大切なものをすり替えることだ。クルド家という答えをアイリオール家へと書き換えてしまえば、ジェミニを支配下においたも同然である。
光が、ジェミニの思考を奪っていくのが手に取るように分かる。あと少しだ。
「さぁ、教えてよ」
ジェミニの唇が僅かに震える。抵抗していると分かったから、根気強く待った。早くしないと外に控えている従者たちにばれるとは思ったが、焦りすぎて手元が疎かになっては意味がない。
「つっ」
零しかけ呑み込まれた言葉に、より強く抵抗していると気がつく。自分が普段使う魔術だけあって、抵抗する方法もよく分かっているのだろう。
光を強くして、引き出そうとする。心に関わる魔術は、自身が体験したように数日間掛かる可能性もある。そうなっては、ジェミニは落とせない。早くクルド家と答えてくれと、そう願いを強くした。
いつの間にか閉じているジェミニの瞼が震えている。唇が開いては閉じ、閉じては開きを繰り返す。何か手を伸ばす仕草をしている。まるで、何かを掴もうとするようにも見えた。
直感した。あと一言がいる。
「さぁ、それは何?」
囁いてやった。
「カ……」
抵抗が緩み呟かれた一言目は、想像していたものではなかった。何が来るかと待ち構えたそこで、ジェミニの吐息を漏らすような細い声が発せられる。
「ヵ……、ぞく」
意外な響きに反応が遅れた。家の繁栄という意味かと思うが、そうではないとも気がつく。
「家族?」
ジェミニは確かに『家族』と言った。それは今はいない親のことだろうか。それとも以前に語った妻のことだろうか。或いは子どもか。もしくは、王家に嫁いだ姉のことかもしれない。
そのときブライトに過ったのは、自身と変わらなかったのだという衝撃だった。
何より、ブライトも母のために動いている。弟のことを嫌いになれないでいる。それだけのためのことが、中々上手くいかずに苦しむことになっている。
許せなかったはずだ。ジェミニは、ブライトのそんな思いを踏みにじる存在だった。しかし実際には、ブライトと対立していたはずのジェミニは、ブライトと同じものが大切だという。何も、変わらなかった。
「ブライト様!」
セラの警告と同時に扉が開いたのが分かった。そこから覗いた何かを避けようとして、衝撃に意識が飛ぶ。
次の瞬間床に叩きつけられる痛みを感じた。折角はなっていた魔術が霧散してしまったのも、同時に感じる。
――――やってしまった。
後悔がブライトを襲った。ブライトの一手は、貴重な一手だった。ノートは姿をくらます魔術で殆ど埋め尽くされている。対抗する魔術を使うには、不自由な手でどうにか描ききらないといけない。折角の機会を、一瞬躊躇ったばかりに逃してしまったのだと意識する。噴き出した後悔は全身を貫いて何度も巡回した。




