その889 『見返セ』
目を覚ましたブライトは、周りにセラがいないことに気がついた。結局すっかり頼りにしているなと思いつつ、体を起こす。そうして空が真っ暗になっていることを確認して、笑いたくなった。
どうやってこの状況で母に報告に行けば良いというのだという思いがあった。
声も出ないし、手紙を処理しただけで一日が終わってしまった。これほど無為な一日を過ごしたのは初めてのことだろう。考える前に問題が相次ぎ、対処しようにも声や骨折といった身体の問題が邪魔をする。
ベッドから身を起こすと、余計に体の疲労を感じた。意識を失っていたのだから、寝ていたのと同義だろうと思ったが全く回復している気がしない。
何かしなくてはと思ったが、問題が大きすぎて段々とどうでもよくなってきた。声が出ないことに焦っていたのも馬鹿馬鹿しい。こうも立て続けに情報を得た後となっては、全てのことに手遅れになってしまった感じが否めなかった。終わりを前にして、何度もぶつかってきたはずの気概は今や霧散してしまった。今のブライトの手には何も残っていない。何の感情も湧き上がってはこなかった。
ぼんやりと部屋を眺めていると、書棚に目がいった。そこには見た目は普通の本に化かした魔術書が飾られている。
好きなことというのは、どうしてか手がでてしまうらしい。
気がついたら満足に動かない指を無理に動かして、地面に法陣を描いていた。コツコツとチョークの音が耳に心地良い。その音をずっと聞いていたかった。くしゅんとくしゃみをし、夜の寒さに気がついたが、上着を羽織りに行く気にもならなかった。どちらかというと、手を止めたくなかった。無心に描く法陣は、ウィリアムが時々沸かしてくれる紅茶のように心に平穏を与える。
もう少しで完成するというときになって、ようやくブライトは自身が描いた法陣の内容について意識した。
これは、炎を生み出す法陣だ。生まれてはじめて覚えたのがこの魔術だった。
懐かしさは、今となっては沸いてこなかった。むしろチクリと痛みを伴った。ブライトの罪が目を閉じても見え隠れするようで、逃げるために残りを淡々と描いた。
その魔術を発動させたら、赤い光とともに熱が生まれることはわかっていた。けれど、手を止めなかった。あのときの感慨が、罪の意識が、何も感じられないでいるブライトの背を押した。
「何を、しているんですか!」
突然、扉が開き怒声とともに、何者かがブライトからチョークを奪った。
背中から地面に叩きつけられた勢いで、息が詰まる。痛みに顰めたその目に、セラの焦った顔が映り込む。
「ご自身が何をなさっているのか、分かっているんですか!」
ブライトは先ほどまで描いた法陣の真上にいたのだ。その魔術を発動させていたら、自らを赤い炎で焼き尽くしていた。
「ご自分を燃やして、どうするつもりだったんですか!」
セラに魔術の勉強をさせていたから、セラには何の法陣がわかる。故に言い訳などはできなかった。
「そんなの、どうにもなりません!」
ブライトは贖罪のために、人の死を背負って戦ってきた。それができなくなったから自らを焼いて償おうとしたのだろうと、セラに怒られる。
「あなたが死ぬことで悲しむ者がいることを理解してください!」
勿論、セラを悲しませていることは分かっていた。エドワードもブライトのことで気を病んでいるだろう。いまだ会話さえままならない弟のことも、頭に浮かんだ。
けれど、どうにもならないのだ。
涙が頬を伝い、ブライトは顔を伏せた。何度も腕で涙をふこうとした。
この世界は、ブライトに優し過ぎる。こんなに罪を重ねているのに、ブライトのことを救おうとする人たちがいるのだ。助けようとしてくれるのだ。
けれど、それが苦しかった。アイリオール家という看板を背負って戦い続けることが正しいと思って頑張ってきた自分がどこか否定されているような気がした。
自分には何もなく、ただ破滅への道を突き進むだけが良かった。多くの人々を死に追いやったことで逃げ場がなくなったブライトの、それこそが罰だと思っていた。
本当は知っていたのだ。ブライトが魔術を好きでなかったら、きっととうにワイズが後を継いでいた。ブライトが早々に折れていたら、もっと多くの犠牲者が出ずにすんだ。一人一人と亡くなっていく人たちに、余計に道を外せまいと自ら視野を狭めていた。
それは、実に楽な生き方だった。悲劇のヒロインを演じて大勢を巻き込みながら死に行くだけの滑稽な人生だった。
わかっていても、突き進むつもりだった。裏で覆すつもりで動いていたことも、多忙を理由にちゃんと向き合えずにいた。
なのに、いざ国王が亡くなり、ブライトの終わりが見えたときになって浮かぶのだ。
「…………ぃ」
その思いがさざなみになって、何も感じないでいたブライトの心を揺さぶった。
何もないところに爪を立てるように。
「―――悔しい」
込み上げた感情が、声として溢れた。
―――世界が、ブライトを嘲笑っている。醜い世界が、ブライトから弟を奪い、当主の座を巡る争いなどという汚い場に引きずり込んだ。父は亡くなり、母は声を奪われてしまった。何度も立ち向かおうとしても、頑張りは報われない。むしろ大勢の犠牲を出して、進んでいく。間違っていると思っても、その道を外れることさえ許されない。
そんな世界に屈する自身が、何よりも悔しくて溜まらない。
どうして自分だけが特別と期待され、なぜ自分だけが女だからと蔑視され、汚れたことに手を染めて進まなければならないのか。ただ、魔術が好きなだけの子供の頃に戻りたかっただけなのに、何故この世界はブライトの好きな生き方をさせてくれないのだ。
「見返してやりましょう?」
セラがそっと差し伸べた手を、ブライトは離すまいと掴んだ。




