その883 『見上ゲテ』
暫く、静かだった。会話がなかったのは、ブライトが目を閉じたせいだろう。ブライトの様子を察したセラに、気を遣われたようだ。
じんじんと痛む手を宥め、身体を休めることに気力を注ぎたかったので、その気遣いは確かに助かった。
そうして数時間ほど経ってから、セラが立ち上がった。
「セラ?」
「少し様子を見てきます」
出口までには、僅かばかりの段差がある。それを登っていくセラを見送る。
少し待つと、マンホールを持ち上げたセラが戻って来る。
「すっかり夜空になっていました。人気もありません。帰るならば今です」
帰りたいようなこのまま残りたいような気持ちになった。自身を叱咤して立ち上がる。腕が動かないものの、フィオナの魔術の影響はすっかりなくなったようで足はしっかりしていた。これならば、セラに肩を借りる必要もなさそうだ。
段差を上がり、セラに開けてもらって外へと出る。そうして人気の無い道を歩き出した。ちなみに、飛行ボードは使わなかった。ブライトの指が折れている今、セラの背にしがみつくこともできないからだ。代わりにセラが飛行ボードを抱えて歩いている。
「そろそろ止まって」
ブライトは時折セラに指示を出して紙を出してもらった。そこに法陣を描いて光を歪ませる魔術を発動させる。二人の姿が見えなくなったことを確認して、再び歩き始めた。
とはいえ、そこまでの警戒は要らなかったかもしれない。各屋敷に門番はいるものの、夜道に歩いている人間はいない。ここのところの治安の悪さもあって、出歩く場合はラクダ車を使って大通りをいくことが多いようだ。
「飛行ボードでの移動もさすがにいませんね」
セラの言葉にブライトも頷く。
「夜道の飛行ボードは本当は事故の元だからね」
それこそ闇夜にどうしても急ぎで移動したい者だけが自己責任で使うものだ。
そうこうするうちに、アイリオール家の屋敷が見えてきた。ほっとしてしまったが、ここにも当然自分たちが雇った門番を配置している。正門から入れば妙な噂が立つだろうから、いつものごとく開けておいた自室の窓から入ろうとして気がついた。
「遠目からだけど、窓が閉まっているような?」
「開けっ放しだと砂埃が入るので」
犯人はセラらしい。恐らく掃除に入ったときに気がついたのだろう。
「ええと。どうやって帰ろう」
意外な問題に頭を抱えたくなったが、セラにはさも当然のように告げられた。
「私が鼠になって先に入ります。お部屋の窓を開けますからそれまでお待ち下さい」
セラが一人屋敷に入っていくのを見送ってから、茂みに身を隠した。夜のシェイレスタは寒い。セラが近くにいなくなると、より一層寒さが堪える。人肌の温度が如何に大きかったか考えさせられる。
――――今後セラを巻き込んだら、きっとこうして寒さに震えることは減る。
それは、とても魅力的な話に思えた。ブライトはこれまでセラには母の指示のことを話すべきではないと考えていたのだ。セラにブライトの意向の全てを従わせる魔術はかけておらず、人殺しをセラは許さないはずだと思いこんでいた。だからこそ、セラからの提案はブライトの予想を超えたものであった。何より一人で抱え込まなくてよいのは大きい。セラがブライトのやることを肯定するならば、許されたかのような気分になるのだ。
そこまで考えて、寒気がした。そんなことは認めてはいけないと反射的に思った。ブライトは、セラに全肯定されたいわけではないのだ。むしろ、娘と重ねるぐらいなら、人殺しは悪だと糾弾して欲しかった。
――――どう言い繕うと、人殺しは人殺しだ。許されようなど、間違っているのである。
それだけは譲ってはいけないと、気持ちを新たにする。そもそも、セラにあまり心を許しては、いざというとき足を掬われる可能性もゼロではない。それが分かっているから、ブライトは努めてセラの前では良い子でいたのだ。本人から打診があったぐらいで、ぐらつくのは今にして思うと非常によろしくない。
コンコンという音がして、顔を上げた。ブライトの部屋の窓を叩いて合図するのはセラだ。彼女の背後にはぼんやりとした温かみのある光が灯っていた。それがあまりに眩しくて手にしてはいけないとのだと悟った。
飛行ボードで上がりながら、窓から自室に入り込む。セラに助けられたからどうにか折れた状態でも中に入れた。
「ありがと、セラ。これでようやく帰って来られたね」
自分の部屋が自然と懐かしく感じた。もう戻ってこられないと思っていたからかもしれない。
「今日は一日地下水路にいたわけだし疲れたでしょう? 休んでもいいよ」
「ブライト様はどうさせるのですか?」
問われ、ブライトは自分の体を見下ろした。くんくんと匂いも嗅ぐ。本当は母に報告に行きたかったが、この臭いではさすがに失礼だ。
「まず、お風呂に入るよ」
「それですと、骨折したところが差し障るかと。お手伝いします」
大丈夫と答えたかったが、確かに洗いようがない。早速手伝ってもらうことになったと後悔しつつも、頷いた。




