その882 『地下カラ』
「でもさ、娘だったら余計に止めないかな?」
人殺しに、逆に殺される危険に、考えれば考えるほど普通とはいえない。親ならば止めるだろうと考えて、チクリと胸の痛みを感じた。なるべく気にしないようにと、天井を仰ぐ。灰色に汚れた天井には、べったりと黒いシミのようなものがついていて、見ていると息が詰まりそうだった。
「止められるものなら止めたいですよ。ですが、私の常識が通用するとも思いません。それならば、やることははっきりしているでしょう」
それで自分が手を汚す手伝いをしても良いというのだから、セラは相当に割り切って考えている。それがセラの聡明さ故のものなのか、異能者施設での『魔術師』の行いに触れたことによるものなのかはブライトには分からなかった。
ただ後者だとしたら、ブライトとしては悲しい気がしたのである。
「こんな、紫色に腫れてしまっていて大丈夫でしょうか」
セラにそう零される。腫れていると指摘されたのは、折られた指だ。応急処置はしてもらったものの、色が段々と変わってきている。
「まぁ、腫れている分には多分」
適当なことを言いつつも、手袋がはめられないのが厄介だと考える。手首を包帯でぐるぐるに巻いてしまいたいが、それだと今後お茶会一つとっても支障がでる。加えてもう一つ厄介なことがあった。
「ただ騎士団への言い訳が厄介かな」
フィオナたちが亡くなったとはいえ、ブライトの姿はフィオナたちの私兵に見られている。さすがに誤魔化しようがないだろう。
何より、騎士団には相応に恨まれているのだ。これを機に、牢獄にいれられかねない。
「とにかく怪我を治されるのが第一優先です」
セラに口を酸っぱくして言われた。
「分かっているって。でもセラも今回は相当無茶をしたよね」
お互い様だと言ってやる。
「緊急事態でしたので。それに、体調も思っていたより良いです」
「緊急事態はあたしもなんだけど」
ぼそっと呟いたら、にこっと笑みを向けられた。悪寒を感じたので急ぎ話を切り替えることにする。
「でも、セラの変身の異能って自分の髪の毛一本にでもいけるんだね」
それも髪の毛から下敷き、下敷きから二人が着地しても余裕なほど大きなスポンジと、世界の法則を何もかも無視している。
「正直無我夢中でして、私自身まさかできるものとは」
知っていたら、ちょっとしたときに便利そうだとまで言われるので、本当にセラは自分の体の一部を変身させられることに気がついていなかったらしい。
「それこそ、火事場の馬鹿力ってやつかな?」
「馬鹿力は出していませんが、危機に瀕しないとやってみようとは思いませんね」
そう言いつつ、セラは落ちている自身の髪を拾って、毛布に変身させる。
「うん、改めて不思議すぎる」
セラが自ら包まった毛布は、ブライトの部屋にある毛布そのものだ。
「水や火にするには難しそうです」
ぽつりと呟かれ、一応制限があるらしいと考える。
「自然物は難しいとかかな。充分便利だけど」
「ひょっとすると食事にも変身できそうですが」
「それはごめん。ちょっとパスしたい」
幾らご馳走に化けようとも元が髪の毛だと思うと、食欲は沸かない。栄養価も再現されるのかが気になるところだが、恐らくは無理だろう。
「時間が経つと戻ってしまいますしね」
セラの同意にブライトは頷く。
作り放題にみえるセラの異能だが、実は長時間の運用は無理らしいことが分かっている。というのも、セラが生み出した毛布はもって一時間ほどらしい。その時間が過ぎると元の髪の毛に戻ってしまうのである。
「まぁ、そんな完璧な力はそうそうないよね」
あったらあったで、イクシウスの異能者施設が黙っていなかっただろう。セラの体調とは別にセラに『異能者』としての限度があったからこそ、ブライトと引き合うことになったわけである。
「それにしても」
「しっ! 誰か来ます」
セラに止められて、ブライトは押し黙った。耳を澄ませると、暫くして足音が聞こえてくる。ブライトには声は何も聞こえない。けれどセラには聞こえているらしい。耳だけが違う生き物に変わっていたので、聴力を高めて聴いているのだろう。
セラの様子を観察しつつ息を押し殺す。ブライトたちは地下水路の奥にいるかもしれない魔物を恐れて入り口付近に居座っている。もし誰かが地下水路を覗こうと顔を出したら、すぐに見つかるのだ。
長い時間に思われた。けれど本当はほんの数分のことだったかもしれない。
「大丈夫そうです」
セラの言葉にふっと息をつく。
「追っ手?」
「いいえ。ですが、騎士団の関係のようです」
それは絶対に見つかりたくない類の相手だ。
「やはりもう少し待機したほうがよいですね。魔物が出るとのことでしたが」
「うん。しかもかなり厄介な類の」
追っ手も魔物も出会わないことを祈るしかない。それぐらいしかできなかった。
「すみません、何か言いかけていましたね。何でしたか?」
「あ、うん。これで特別区域の状況が変わるのかなって」
フィオナたちは、カタラタを裏で支援していた。故にカタラタは力を持ち、次期当主として特別区域の管理者になろうとしていたのだ。その後ろ盾がなくなった為、カタラタには頼ることのできるものはなくなった。一日会っただけでも問題行動が見受けられたカタラタだ。恐らく、後ろ盾がなければすぐにでも破局するだろう。
「変われば、『異能者』の扱いも良くなるのですか」
問われ、すぐには頷けなかった。今も当主はヴァールなのだ。特別区域は王家とヴァールが決めているはずである。となると、変わらない可能性も高い。ただ、カタラタがいなくなれば救われるものもあるだろう。
「少なくとも、理不尽な思いをする『異能者』は減ると思う」
カタラタの指示で異能を使い、他ならぬカタラタに鞭で打たれていた子供のことを思い出す。ああいう理不尽を、ヴァールは好んでいないはずだ。
「それならば、良かったです」
セラは自身の胸に手を当て、小さく吐息をついている。何故かその動作が、奪うことで救われる命があると言い聞かせているように見えた。




