その877 『ソコカラ』
真っ暗になった部屋で一人残されたブライトにできたのは、逃走のための作戦会議ではなかった。耳鼻口から入ってくる香りに既に、まともに考えられなくなっていたのだ。具体的には、頭の芯が痺れ、気持ち悪さに吐き気がし、身体が痙攣しているときた。
これは不味い状況であることは頭の片隅で理解していたけれども、それだけだ。逃げ出そうと、もがくことさえままならないでいる。そうしたなかで、折られた痛みが自身を唯一正気に引き戻す。あえて痛みを感じながら、なるべく思考をしようと試みたものの、痛みは状況を伝えるだけでブライトの思考をまとめる役には立たなかった。咳き込む元気すらなくなり、やがて意識が掠れ始め、頭の中にモヤが掛かっていく。
ガタンという扉の音が、意識を揺れ戻した。薄明かりが扉の先から伸びていく。視線を上げれば、そこにミルダがいた。ずっしりとした巨体がブライトに近づいてくる。その手に持っている何かがきらりと光った。
何も言われなかった。肩を抑えられたと思うと、チクリと小さな痛みが走った。冷たい薬が入っていく感覚とともに意識が更に混濁していく。
香を強くしたものを直接注射針で投与されたのだと気づいても、抵抗ができない。眠っているのか起きているのかも定かではないなかで、不意に冷たい指がブライトの顎を掴んだ。
「ほら、私の言うことを繰り返して?」
いつの間にフィオナがやってきたのかも分からなかった。促されるが、口は動かない。折れた指から痛みが走って堪らずうめき声を溢すと、フィオナは再度ブライトに繰り返すように迫った。
「ほら、このままでは死んでしまうわ。私は貴方を助けたいのよ」
そういうことが何回もあったような、一回しかなかったような、その記憶さえ朧げだ。
時間の感覚もとうになくなり、何も考えられないどころか感じない。気づいたら冷たい指に顎を掴まれて、フィオナの瞳に覗かれている。
針のチクッとする痛みに、とうとう骨折の痛みさえ感じなくなった。
何も感じない。ただ、繰り返しを要求する声だけが聞こえてくる。そのなかではもう、自分が何者なのかさえ分からない。自分を形成する全てが消えてしまって、ブライトを形作ることができない。
そうした世界で、混濁する意識を揺さぶる何かがあった。
「――――ト様!」
それが何かも分からない。ただ、声がいつもと違うとそう感じただけだ。切羽詰まっている声だなとは思ったが、反応できなかった。そうしていると、ぐらぐらと身体が揺れる感覚があった。気持ち悪さが膨らんで、吐きたくなる。やめてくれと考えたところで、常に水中にいたような状態の耳が、微かに息吹を感じとった。
「ブライト様!」
はっとした。途端に夢から醒めたように、世界に色が宿った。いるはずのない人物が目の前にいて、ブライトの顔を覗き込んでいると気がつく。
「……セ、セラ?」
絞り出した声が、セラの顔を安堵へと変えた。それが分かって、心配されていたのだと気がついた。悪いことをしたなと反省する。セラにはいつも心配をかけてばかりだ。
「大丈夫ですか?」
正直、気分は最悪だった。けれどそうもいっていられなかった。次の瞬間、セラが横に吹き飛んだからだ。
「セラ!」
どうしてセラがここにいるのかとか、何があったのかとか聞く余裕もなかった。セラによって壁から外されていた身体は無理を言わせれば動くことができる。すぐに立ち上がると、フィフィの後ろ姿が視界に入った。セラに蹴りを叩き込んでから着地を決めたところのようだ。蹴りにより飛ばされたセラはというと、少し離れた床に打ち付けられて痛そうに呻いている。頭を打ったらしく額から血を流しているのが痛々しい。
「仲間、いたんだ!」
フィフィの声は突然の侵入者にわくわくしているようであった。
ブライトは頼りない足に力を入れて、セラへと駆けつけようとする。フィフィの次の狙いがセラへのトドメだと本能で気づいたからだ。
「セラ、描くモノある?」
そう声を張り上げながらも、いつの間にかちゃんとはめていた手袋を外そうとする。踏まれて折られた指では中々上手くいかなかったので歯に切り替えた。そうして露わになった文字は『愚か者』。まさに、ブライトにうってつけの言葉である。
ブライトの足はフィフィと比べたら圧倒的に遅い。にも関わらずブライトのほうが一足早くセラへと近づけたのは、フィフィが着地するにしては数歩以上後ろに下がっていたからだ。どうやらセラはただ飛ばされただけではなかったらしい。フィフィに蹴られた瞬間、異能で突き放したようである。更にセラは自らの髪の毛を引き抜いた。そうして投げたそれは、ブライトの言葉を受けてペンに変わる。
「線を!」
腕を差し出したブライトへとそのペン先が伸び、一閃された。
次の瞬間、暗い部屋で法陣の光がともった。
「ふみゃ!」
猫みたいな悲鳴を上げて、フィフィが後ろに飛ばされる。突き破るような炎がブライトの腕を焼いて、そのまま何度もフィフィへとぶつかっていく。轟音に部屋中が震えた。
やがて落ち着くと、嘘のように静かになった。フィフィに刺さった炎は幾重にも彼女を焼き、彼女はだらんと地面に横たわって口から血を流している。その目は炎に焼かれて既に何も映していない。
「動けますか? ブライト様」
「足は大丈夫。手は使い物にならないけど」
ブライトは言葉を証明するためにセラについて走る。セラもあまり本調子ではなさそうだが、今は互いに休むどころではない。気持ち悪さを呑み下して、少しでも先程の部屋から離れようと走った。
「曲者がいるぞ!」
どうもフィオナたちは大勢の兵士を自前で雇っているらしい。すぐに見つかったが、セラはその口だけを飛竜に変えると、炎を吐いてみせる。途端に屋敷が炎に覆われて兵士の仕事は消火活動に変わった。
「ブライト様、このペンを持てますか?」
更に髪の毛を千切るとペンに変えて、セラはブライトに差し出す。人差し指が駄目でも、持ち方を変えればどうにかなる。ブライトはペンを受け取った。
「道はわかるの?」
「全く。御存知ですか?」
「全く」
頼りない返事を交わし合いながら、二人で走る。逃げるならどこかの窓からだが、上手いこと兵士たちに防がれてしまっていけずにいる。そうこうするうちに、広間にでてしまった。
「止まって! セラ!」
そこに書かれているものに気が付き、ブライトは静止の声を上げる。法陣だ。踏んだらきっと心を操る魔術が起動して、先程までのブライトのようになる。
「お痛が過ぎるわよ、ブライト様」
大人しく止まったセラの対面から、優雅に歩いてくるのはフィオナだった。セラは逃げるつもりで先程までいた部屋へと戻ろうとする。しかし、そこにはいつの間にかヨルダがいる。
「大人しく逃がすと思うか?」




