その873 『シタカッタコト』
「愚か者が」
聞こえた声は、エドワードのものだ。何処か悲しみを含んでいた。
「だから、言ったでしょう。急ぎ過ぎなんですよ、エドは」
鋭い口調だが、どこか痛みに耐えるような声で非難がされる。王子相手にここまで気安く話せる間柄なのだと気付かされた。
「では、どうすればよかったというのだ。もうすぐ家庭教師という言い訳も通用しなくなるのだぞ? 余は国王になるしかないのだから」
「ですから、構わないでくださいと言ったのです。どうして家族が大変なときに僕らに構うんですか」
聞こえてくるやりとりは、ブライトが目を覚ましたことに気がついていない。だから、辛かった。
「余は、身近な姉弟一組さえ助けられない未熟な王にはなりとうないのだ」
ずっと勘違いしていたのだと分かってしまった。今までエドワードがブライトを意味深に見つめていたことは、多々あった。あれは、ブライトをどう切り捨てるか考えていたわけではなかった。ブライトたち姉弟をどう助けるか考えてくれていたのだ。
だから先程の猛毒の茶は、ブライトを殺す為ではなくワイズを焚き付けるための最終手段だったのだろうと推察できた。いつまで経ってもすれ違いを続けようとする姉弟たちを助けたくて、エドワードなりに考えた結果だ。そして、実際に倒れたブライトを放っておけずにワイズは奥の部屋から飛び出た。それを好機とみて、この際ブライトに掛かっていた母の魔術を解くようにと、エドワードが指示をしたのだろう。そして、ブライトは平静を保てなくなった。
コホコホと咽る音とともに血の匂いがした。
「すまん。結果として無茶をさせた。奥で休め」
「そうさせてもらいます」
ワイズの去る気配がする。血の匂いが遠ざかり、扉の閉まる音がした。
「……起きているのだろう?」
問われたブライトは、ゆっくりと身体を起こした。猛毒の茶を飲んだうえに、自ら舌を噛んだのだ。最悪な気分を想定したが、口の中が血生臭いで、不思議なぐらい元気だった。ワイズが治癒の魔術で論文を書いていたと思い至る。
「すまなかった。そなたの忠誠心を試すような真似をした」
ブライトは、首を横に振った。
「そなたを助けたい。余はどうしたら良い?」
真摯に見つめられて、ブライトははじめてエドワードを身近に感じた。いつ殺されるともしれないとばかり思っていた頃には感じられない親近感だ。それは、エドワードが本気でブライトを助けようとしているから感じるものだ。
何故そこまでと疑問が過ぎる。家庭教師として雇われるまでは、ブライトとは接点もろくになかったはずだ。だとしたら、エドワードがこれほど親身になって助けようとするのは、もう一人の存在があるからだ。
「あたしは、恵まれすぎていますね」
エドワードの視線を受けて、そっと目頭を抑える。
ここまできたら、認めるしかなかった。ブライトは弟のことを憎むどころか好ましく感じている。殺そうとまでした姉のことを案じ、助けようとする弟がどうしても愛おしい。殆ど会話したことなどなくても、その姿を見るだけで大好きだったミリアの息子で自身の弟などだと実感してしまう。
それに、ブライトはエドワードのことも好きだ。腕白だが聡明な王子は同時に心優しい人物だったのである。普通ならばどちらかを切り捨てるだけでよいお家騒動に入り込み、姉弟共々助けようとしてくれている。今なら分かる。魔術の授業でどんどん伸ばしている成果をブライトのおかげとエドワードは絶賛していたが、ブライトではなくエドワードこそがブライトを助けるために積み上げたことなのだ。家庭教師という肩書きがなければ、成人した段階できっとブライトは家を追い出されていた。そう気づいたからこそ、もうエドワードのことを嫌いになることができなかった。
「何も」
だから、ブライトはそう答えた。
「エドワード王子がそう願ってくださるだけであたしは十分です。母もこれを見て喜ぶことでしょう」
エドワードは何かを言いかけて気づいた顔をした。
「まさか、そなた戻るつもりなのか」
ブライトは頷く。母が魔術をかけた張本人だと認めてしまったようなものだが、今更だという思いもあった。
「何故だ! そなたはまた心を蝕まれるぞ……! そなたとて好きでやっているわけでは……」
ブライトは首を横に振った。それで、エドワードはその先が言えなくなった。
ブライトは母のことも好きなのだ。だから、母に声を取り戻してほしいし、生きていて欲しいと願っている。
「あたしは、母も助けたいのです」
ブライトは立ち上がった。近くに落ちていたハンカチで血を拭き取る。舌を噛んだときの血か、或いはワイズのものかは判断がつかなかった。
「ハンカチは後日洗って返しますので」
真っ赤になったそれをなるべく汚れないように折り畳む。
「そんなものは、いい」
悲痛なエドワードの顔が、今となっては愛おしい。きっと、エドワードは良い国王になるだろう。その国を少しでも助けられたら良いのにと感じた。本当に今頃沸いた思いだった。
実際、ブライトは王家のことを今の今まで信頼していなかった。口だけは従って、いつ切り捨てられるかとおどおどしていただけだ。そうではいけないと気づけたのは、エドワードの行動のおかげだ。
「本日は有難うございました」
「いいや、待て」
エドワードは、去ろうとするブライトを止めた。ずかずかとやってきて、腕をつかむ。
「手を出せ」
大人しく手のひらを向けると、不器用ながらもそこに文字を刻む。
「必ず、助ける」
とあった。
思わず、ブライトは笑ってしまった。まだエドワードはそんなことを言うのだ。しかも、ブライトの目に映るものは母に筒抜けだと分かったうえで、出してきた手段が指に伝わる感触だ。子供らしさの残る行為に笑ってしまった。
そうして笑うブライトの手のひらで、指はまだ文字を綴っている。
「そなたの罪を知っている。だが、助ける」
思わず笑みが固まった。ブライトも本気ならばエドワードもまた本気だと改めて気づかされたからだ。行動は幼稚でも、エゴにはエゴをぶつけるとエドワードは決めている。
「ギルドに、余の手。ワイズと繋がる。頼れ」
文字であるために必要最低限に書かれたその文には、あまりにも情報が詰め込まれていた。ギルドにいたやたらと手際の良かった金髪の男を思い出す。確信はないが、可能性は高い気がした。エドワードはブライトがギルドで何をしているのかもちゃんと情報を得ているのだ。ただ、ワイズの姉だからというのではなく、自分なりにブライトの情報を集めた結果、助けようとしていると思われた。
期待してもよいのかもしれない。けれど、それを今更知ったところで時間がないのも事実だ。エドワードの焦りから、ブライトにはある程度の理解ができてしまった。毒の茶をけしかけてまでして、ワイズを動かせようとしたのだ。きっともう、ブライトのリミットはあまり残されていない。
「では、失礼します」
メッセージとは別に渡されたのは傷薬だった。それを手にして、ブライトはパティオを出る。すぐに血塗れのブライトを見た執事がぎょっとしてやってきた。とりあえずと替えを用意してもらう。そうして、体裁を整えてからミヤンとラクダ車に乗り込む。
ゆらゆらと揺られながら、自分の守りたいものが何かを改めて認めた。そして、それを守るために障害になるものが何かもよく理解する。
「ちゃんと考えないと」
少しでも理想に近づきたくて、自身を叱咤した。




