その872 『剥ガサナイデ』
エドワードの発言に、心が揺さぶられ続けている。
飲めば猛毒。まず助からない茶を王家への信頼のために飲み干せというのだ。子供の遊びしては、度が過ぎている。
お戯れが過ぎますよと宥めるのが良いかと考えて、ティーポットから視線をそらして顔を上げる。エドワードの真剣な眼差しに本気だと気づかされた。
次の疑問は、これは本当に毒なのかということだ。王家の信頼を図るために、エドワードが用意したものだ。信頼できずに飲めなければ、ブライトはそこまでの人間ということになる。口先だけの人間は信用に足らないといってその場で切り捨てられる可能性がある。そうなれば、ワイズが正式にアイリオール家を継ぐだろう。
――――となると、これは嘘で、何でもないただの無害な茶かもしれない。
そう判断して、茶を注いでいく。こぼれた茶葉を観察するによくある葉に見える。恐る恐る口元に持っていき匂いを嗅いでも普通だ。
口にそっと含む。ごくんと一口、お茶を口にした瞬間、こみ上げた苦みにぎょっとした。
「どうした? 飲まないのか? 余への信頼はその程度か」
エドワードの声が、既に遠くで聞こえる気がする。間違いない、この苦みは確かに毒の類だ。
エドワードは本気で毒の茶をブライトに飲むように勧めている。
「……いえ、苦味があったので」
「猛毒だからな。悪いが、上手い茶ではない」
淡々と言われて、エドワードの真意が分からなくなった。或いはエドワードはこう言っているのかもしれない。
――――これこそがエドワードのエゴだ。友であるワイズを生かしブライトを殺すために、ブライトに自ら毒を仰いでもらおう。そうして自害してみせることこそが、王家への忠誠だ。晴れて、アイリオール家の当主が決まりシェイレスタは安泰を迎える。
息苦しさを覚えてむせかけた。悔しさで泣きたくなった。もしそうだとしたら、ブライトにはどうにもできない。そう思ったからだ。
「どうした? 飲むのをやめるのか」
無情に届く声に反発を覚えた。ティーカップに茶を注いで、続けて茶を口に含んでいく。
一杯、二杯。耐え難い苦みに指先が痺れた。
三杯を口に含んだところで、くらりと目眩がした。
「茶をこぼすでないぞ」
エドワードの言葉があったから、ティーカップはその場でガンという音を立てるだけで終わった。身体の痺れに顔を起こすのも辛くなってきた。震える腕をどうにか押さえ込みながら、続けて茶を飲む。
茶は残り一杯分だ。けれど意識の方は既に彷徨い始めていた。気持ち悪さに吐きたくなる気持ちを宥めつつ、最後の一杯を注ぎ切る。座っているはずの足まで小刻みに震えてしまい、言うことがきかない。エドワードの顔を確認することもできない。目の前のティーカップだけをどうにか口に含む。痺れる舌のうえを熱い茶が焼いていく。
そうして最後の一杯を飲みきった。
そう思った途端、体から力が抜けた。あっと思ったときには体を支えられずに横に倒れていった。テーブルはブライトの体を受け止めきれず、そのまま冷たい床に落ちていく。どこかで思いっきり扉が開く音がする。
「大義であった、愚か者」
エドワードの声が二人に向けて掛けられる。
それが分かった途端、意識が現実と夢の間に入り込んだ。
「……うな!」
誰かの叫び声が聞こえて、
「何の、真、……か!」
そこに反論する声が近くで聞こえる。誰かがブライトの身体を支えて覗き込んでいる。それが分かるのに、ぼんやりと視界がぼやけていて輪郭を捉えきれない。ただひんやりした細い指に腕を掴まれて揺さぶられているのだけが、伝わる。それが、やけに心地よい。
なんだろうと思う間もなく、腕にチクッとする痛みを感じた。注射針だと気がついたが、何もできなかった。どくどくと入っていく液体の冷たさが、まるで記憶を読むときの魔術のようだ等とどうしようもないことを考えた。
そこで意識は完全に途絶えたのだと思う。気がつくと、指先にひんやりとした冷たい指が絡んでいる感触があった。不思議と手放す気になれなかった。その感触を感じ続けていると、水の中に入ったかのようにぼやぼやとした声が耳に届いた。
「……たく、恨、……すよ」
「他に、……があっ、………でも?」
何をされているのか、ブライトの心臓の近くで冷たいものがすっと入り込む感覚があった。
「解、……ても、どう、……るか」
ぼやけた視界はまだはっきりしない。ただ誰かがブライトに膝枕をして指を絡め、もう片方で心臓に手を当てているのだとは分かった。何をしようとしてるのだろう、そんなことを呑気に考える自身がいる。
不意に、冷たい指先がブライトの指先をぎゅっと掴んだ。ぎょっとしたブライトの目が急に鮮明になった。赤い目がブライトを見下ろしている。随分青白い顔をしている子供だと気がついた。きっと体調が良くないのだ。大丈夫かと声をかけようとしたところで、
――カランと、心の中に確かにあったはずの楔が落ちた音がした。
「あっ」
思わずあげた自身の声は、信じられないものを前に絶句したものであった。目の前にいるのは、確かに間違いようもなく自分の弟だった。ワイズが、蒼白な顔でブライトを見下ろしているのだ。
そう意識した途端、真っ青になった。
記憶が、ブライトの頭の中にぞっとする量で流れ込んできたのだ。
「あ、……ぃ、ぃや」
耐えられずに飛び起きた。ワイズを振り払い、必死にこびり付いてくる記憶を落とそうとする。
レイドの絶望した背中。ネネの最期の表情。母にぶたれた傷。マリーナの苦しみ悶える姿。セセリアの恋する乙女のような顔。大量の鼠の死骸。ハレンの動かなくなった身体。
「ち、ちがう、あ、あたしは」
何も違わないというのに逃げたくなる。罪の重みを隠してくれる母の呪いが見当たらない。心の何処かにあったはずの楔が消えてしまった。消されたのだと遅れて気がつく。
――――耐えられない。こんなの、耐えきれない。
セラにも隠して夜道を歩いた。屍をばれないように隠したこともある。レイドを追い詰めて殺しておいて、ガインからの追及にレイドを出汁にしてかわした。
――――なんて、悍ましい所業だろう。
あまりの罪深さに身が焦げるようだった。本当は、知っているのだ。ブライトさえいなければ、アイリオール家のお家騒動は起きなかった。ブライトが中途半端に魔術が好きだったから、王家も下手に制裁をいられずにいる。だから結果として争いになって多くの人が秘密裏に殺された。
――――知っている。ブライトさえいなければ、皆は幸せだったのだ。
「舌を噛ませるな!」
エドワードの叫びと、ブライトが自身の歯に力を入れたのは同時だった。真っ赤な鮮血が口の中で弾ける。
そうしてまた、ブライトの意識は途切れた。




