その87 『イユの選択』
「イユ! 大丈夫、ねぇってば!?」
体を揺さぶられて、はっとした。目の前にブライトの不安そうな顔が映し出される。先ほどの出来事が夢だと気づくのに時間がかかった。
「夢…… 」
――――だが、それはいつまでも夢のままだといえるのか。
イユは気づいてしまった。レンドに見張ると言われて嬉しかった自分の心に。暗示の恐怖から逃げたいと考える自分自身に。そして、自分の中にある『後悔』に。
「イユ?」
返事をしないイユに不安になったらしい。ブライトが尋ねてくる。
「……大丈夫、夢をみていただけ」
そう答えて、体を起こした。アグルの寝息が聞こえて、まだ夜なのだと気づく。ということは、レヴァスはいないはずだ。彼も自分の寝室で寝ている。
「……だいぶうなされていたから起こしちゃったんだけど、よかった?」
「えぇ。私の方こそ、ブライトを起こしてしまったのでしょう?」
この時間に起きていると思えないから、可能性を考えるとそうなる。
「気にしてないよ」
とブライトに言われる。否定しないのは嘘をついてもばれるとわかっているからだろう。
「……イユ?」
ぼんやりとしていると、ブライトに心配そうな顔で覗かれた。魔術師にまでこのような顔をされるとは落ちたものだと考えてから、首を横に振った。きっと魔術師にこだわりすぎなのだと自省する。
「ブライトに聞きたいことがあったのだけれど」
だから、ブライト個人の意思を確かめたかった。
「イユ?」
イユの声音から何かを察してか、ブライトの声が不思議そうだ。
「ブライトと初めて会ったとき……、どうして暗示のことで嘘をついたのかしら?」
これだけは聞いておきたかった。その真意がずっとわからないままなのは嫌だった。
「あたしが、生き延びるためにだよ」
ブライトは飾らず、はっきりとそう答えた。
「あそこでイユに恩を売っておけば、殺されないように取り計らってくれるかもって思ったんだ。イユにとっては……、確かに大問題だったかもしれないけれど」
謝ろうとするブライトをイユは制した。なんて、単純で明快な理由だろうと納得がいった。イユにはその答えが何よりもしっくりくる。自分の立場ならば、そう答えただろうからだ。
「……ブライトにお願いしたいことがあるのだけれど」
暗示についていつまで悩んでいても仕方がないと、自身に言い聞かせる。決めたからには、動く。それが一番大切なことだと認識していた。
「どうしたの?」
真剣な声音を崩さないイユに、さすがのブライトも茶化す様子は見せなかった。
「本当に暗示にかかっていないか、調べてほしいのよ」
イユの言葉に、ブライトは驚いた顔をしてみせる。
「え、いいの? 前にも言ったけれど、記憶を全て覗くことしかあたしにはできないよ」
良いわけがない。だが、このままでいるのはもっと悪いという判断だ。
「考えたうえで言っているのよ」
イユは言い切った。
「私はいつまでも『かかっているかもしれない』ということに怯えていたくないの」
異能者施設の影に怯える日々を断ち切りたいのだ。それにはブライトしかいない。協力的な魔術師に会う機会など、一生のうちにもまずないだろう。その幸運を逃したくはない。
ブライトは暫く考える仕草をしていた。それから、イユの目を見て言った。
「わかった。イユがその気なら協力してあげる」
その言葉だけで、少しほっとできたのは内緒だ。
「ありがとう」
お礼を言ってからイユは気づいた。
「……ブライト、何をしているの」
ブライトは自分の髪の毛を触り……、痛そうな顔をしつつも引っ張る。一本抜けると、イユに見せた。
「お願いした側なんだから、イユも手伝ってよ。自分だけ髪の毛を抜いていたら、いつか大変なことになりそうじゃん」
――――こんなことで。
イユが衝撃を受けたのはそれから数分後だ。ブライトがイユと自身の髪を並べて法陣の模様を描くと、確かに法陣が光を放ったのだ。
「どういうこと。杖なんていらないじゃない」
「イユも知らなかったんだね」
とブライトが笑ってみせる。
知ってはいた。魔術師は描くものさえあれば、どこにでも法陣を描くことができる。だからこの医務室には書き物をするためのペンは置かれていないし杖も取り上げられている。魔術師にお礼を言いつつも、まだ完全に信頼したわけではない船員たちが用意した環境だ。それが髪を抜く程度のことで簡単に破られている。
「それじゃあ、あの部屋にいたときだって、魔術を使いたい放題……」
「そうだよ。髪を抜くと痛いからいやだけど」
イユは自分たちの浅はかさに気づいた。これではブライトは実質野放しになっていたということだ。
ブライトが魔術を使わなかったのは誠意からだろうか、或いは目的上使う必要がないからだろうか。
そこまで考えてから、頭から冷や水を浴びせられた気分になった。衝撃の事実に、思考が行き着いたからだ。
――――ブライトが今の今まで本当に魔術を使わなかったとはいえない。実は既に使っていた可能性も十分にある。
「ほら、この上に乗って」
急にブライトに対する疑心が生まれたが、お願いしたのはイユだ。今更後には引けないだろうと考える。勇気を出して、イユはブライトが用意した法陣の上に乗る。
「さぁ、動かすよ」
途端に体の身動きが取れなくなった。
「ところで」
ブライトから今更質問がある。
「もし、害のない暗示にかかっていたらどうするの」
しかめ面をするイユを見てか、説明がされる。
「暗示がみんな悪いものだとは限らないってこと。アグルが飲んだ薬の材料にスズランの葉が入っていたのがいい例だよ」
そういえばと思い出す。リュイスが間違えて読み上げた薬の材料に入っていた覚えがある。
「本来は毒でも、使いようによっては薬になる。イユの心を助けるものかもしれないよ?」
全く考えていないことだった。その説明でいけば、イユの心が壊れずにすんでいるのはその暗示による可能性もある。
「構わないわ。解いて」
言い切った。異能者施設に関わるもの全てから何としても断ち切りたかったのだ。
ブライトもそれ以上は何も言わなかった。そもそも暗示にかかっていない可能性もある。暗示にかかっていた場合もイユに悪影響を及ぼすものである場合が殆どだと考えたのだろう。
「じゃあ、行くよ」
頷こうとして、体が動かないことに改めて気づく。よろしくと、言おうとして既に言葉が出ないことに気づいた。
イユの心臓に位置する場所にブライトの手がかかる。すぐにその手が体へと沈み込んでいく感覚がして、ぞくっとした。
苦しい。痛い。それにどうしようもなく、体が熱い。三度目だが、この感覚には慣れそうにない。
「頭を空っぽにすれば、少しは楽になるよ」
ブライトの助言が耳に入る。早く言ってくれればよいのにと思うと、途端に意識が途切れ始める。そのまま意識を持っていかれないように、頭を空っぽにするように努めた。意識が戻ってくるのを感じ、そしてまた意識が途切れはじめ……、それをただ繰り返す。
だが、意識はゆっくりと確実に沈んでいく。一体何回倒れ、起き上がったことだろう。覚えていられないほど繰り返して、そしてとうとう、イユの意識は完全に闇の中へと取り残された。
ただ、この会話だけは後に思い出すことになる。
「……だったんだね」
ブライトの声に意識が戻り、イユは彼女を見たのだ。いつの間にか体は地面へと横たわっていて、見上げる形になっていた。
「ブライト?」
確かそのとき、声が出たと思う。それとも声が出たと錯覚しただけなのかもしれない。
そしてブライトは言ったのだ。
「イユは、魔術師の家系だったんだね」
イユの目が驚きに見開く。




