その865 『仇ガデキ夫トナル』
「どうぞ、水ですが」
荒い息をつく男の尋常ならぬ様子に、レイドは恐れさえ抱いていたようだ。クルド家当主が来た時よりも慎重に、グラスを男が座る机へと置く。
「あぁ、ありがとう」
男は中肉中背で、強張った顔に皺をたくさん刻んでいた。
「君のお父さんに聞いていたとおり、君はとても親切だな」
「父が、そのようなことを?」
レイドの声は警戒を隠せていない。
「言っていたとも。君はよく剣の稽古を続けているのだろう? 竹刀を折るほど努力しているとも言っていたよ」
そうして水を飲みきった男は静かにグラスをレイドに返した。
「改めて、来るのが遅くなってすまない。父の葬儀にクルド家の人間が来ると見ていて、避けたんだ」
「あの、あなたは父の友人なのですよね? それならばクルド家の方とは」
男は寂しそうに首を横に振った。
「このことは他言無用で願いたいんだが」
そうして、意を決したようにぽつりと呟く。
「君のお父さんを殺したのは、クルド家の長男ジェミニだ」
レイドは呆然とした様子で、言葉を紡ぐ。
「父は、クルド家を守った、と」
「表向きはそう言うしかないだろう。しかし、実際には君のお父さんはただの被害者だ」
喉が渇いたように、レイドは男に差し出されたグラスを手に取った。空のグラスは握りすぎて、砕けないか心配になる程だ。
「あり得ないです。それなら、何故クルド家の方は俺の勧誘を?」
「君に第二の被害者になってもらうためかもしれないな」
男はレイドにこのままでは信じてもらえないと気がついたようだ。
「詳細を語ろう。クルド家は元々魔術の被検体を探していたのだ」
と紡いだ。
男の話では、こうだ。『魔術師』は家を継ぐ者へ魔術の教育を非常に熱心に行っている。ただ魔術書を読むだけで解決するならよいが、習得のためには被検体がいる魔術もある。クルド家はまさに被検体が必要な魔術を得意とする。その為、被検体集めをレイドの父に秘密裏に頼んだのだ。貴族区域にいる従者たちの家族から亡くなっても支障がなさそうな者を調べ集めて、密かにクルド家に送るのだという。だが、その依頼をレイドの父は断った。故に、レイドの父自身が代わりに被検体になることになったのだと。
「荒唐無稽だと謗るかね?」
男はレイドを試すようにそう尋ねた。
「いえ、そう言うには少々、生々しいです」
レイドは男の話を一蹴しなかった。できなかったのだろう。男は、そうと知らないと語れないほどに詳し過ぎた。ブライトがクルド家の当主なら、間違いなく男の口封じに走っているところだ。その当事者でないと知れない詳しさを、レイドも悟ったのだと思われた。
「何の魔術を父に掛けたんですか」
レイドの質問に男は答えた。
「その人にとって最も大切なものをすり替える、人の心を弄ぶものだ。一生クルド家に忠節を尽くさせるにはうってつけの魔術だ。しかし実際には失敗して、君のお父さんは刺されて死んだように見せられたのだ」
テーブルの前で拳を作るレイドの手が、小刻みに震えていた。
「だが、忘れてはいけない。これはクルド家に限ったことではない。先程言ったように、『魔術師』は子供に魔術を覚えさせるために必死だ。だから、被検体を用意する。それが表向きでは決して伝わることのない、『魔術師』たちの裏の真実だ」
「けれど、失敗しなかったら父は少なくとも生きていたと?」
男はレイドの上擦った声に心配そうな視線を向けながらも、頷いた。
「それはそうだ。ジェミニ様は好きで失敗したわけではないだろう」
重い沈黙が流れた。レイドは頭のなかを整理するように、呟く。
「では何故、この話を?」
「そりゃ、君にお父さんの二の舞になってほしくないからだ。それに、君のお父さんは本当の意味で凄い人だと伝えたかった」
「凄い人?」
男はレイドに伝わっていないと見て、続ける。
「あぁ、そうだ。自分たちには絶対できない。正義感が強いからこそ、自らが被検体になったんだから」
レイドが言葉を紡げないでいると、男は更に続けた。
「君も正義感の強い人間だと聞いている。だからこそ、私は君に君のお父さんのようにはなってほしくない。奉公の話は断るんだ」
レイドの手を包み込むように握りしめる。その男の目は真剣で、嘘を言っているようには見えない。
「……少し、考えさせてください」
男が包むレイドの手の中では、小刻みにグラスが震えている。果たしてどちらの震えなのか、過去を見ることしかできないブライトには知りようがなかった。
考えさせてくれと答えたレイドが最初にしたのは、自分ではなく幼馴染の心配だったようである。というのもレイドは男を帰すとすぐに、奉公に出ているというシエリの元へとむかったのだ。
「レイド? 久しぶりね」
シエリは普通に家にいた。弟の看病をしているのだという。肩を上下させながらやってきたレイドにシエリは驚いたように、水を注いだ。
「君の弟が病気だなんて、知らなかった。何の病だ?」
「分からないの。先日、ファンダール家の奉公に呼ばれたと言っていたばかりよ。あのときはまだ元気だったのに。今は私が何と話しかけてもぴくりとも反応しないの。息はしているのよ? でも、ずっと死んだように眠っていて……」
前述の男の話と合わせても、不気味な予感がそこにはあった。少なくともレイドの不信感を募らせるには十分な話だった。
「奉公はなしにできないのか?」
「私? 無理よ。今は無理を言って休ませていただいているの。それに私はアイリオール家に伝えることに満足しているわ」
「アイリオール家は酷いことをしていないのか」
レイドの言葉に、シエリは戸惑った様子だ。
「酷いこと? どうかしら。奥様はお優しいし、先日なんて奴隷あがりの子を可哀想だからと雇ったのよ」
アイリオール家はましなのか、それともシエリが気づいていないだけなのかがレイドには分からなかったのだろう。レイドはそれ以上何も口にしなかった。
「それよりも大丈夫? 私も聞いたわ。ご家族が亡くなったって。それで混乱しているのよね? でも、これからどうするの?」
話を振られて、レイドの視線が水の入ったコップへと移る。水は殆ど飲めずにいる。それどころではなかったからだ。
ごくりとはじめて一口目を飲んでから、レイドは落ち着きを取り戻したように零した。
「……分からない。父の友人という人がきて、クルド家には仕えないほうが良いと言われた。あの話を聞いた後で、他の家にも仕える気にはなれない」
「でも、そんなこと言ったって、誰かの家には仕えないと家を追い出されてしまうわ」
レイドは独り身になる。今までは父の収入があったから家にいられたのだ。それが一変した。いつまでも落ち込んではいられないのである。
けれど、シエリの発言に、レイドは答えられないでいる。それを見かねてか、シエリは手を叩いた。
「分かったわ。それなら一旦私の家に住んで」
「は?」
「見ての通りよ。私も親がいないし、弟は病気だもの。奉公に行きたいから、ずっと弟を看てくれる人がいなくて困っていたの」
コップの水が揺れて、レイドの視線がシエリに移動する。
「君の弟の面倒をみろと?」
「そうよ。家なしじゃ困るんだからそれぐらい良いでしょ」
「けれど、わかっているのか? それはその、君の弟がいるとはいえ、男女が一緒に住むということで……」
レイドが動揺しているのが、見えなくても伝わってきた。
「だから、そう言っているじゃない」
「しかし、それはつまり、けっ、けっこ……」
パシャンとコップの水がはねて、レイドの手に掛かった。顔を少し赤らめたシエリがレースのハンカチをレイドへと優しく当てる。そうして、朗らかに笑った。
「最後まで言いなさいよ。いいわよ、私はそのほうが助かるから」
とてもあけすけに言うものだ。レイドも驚愕したらしい。視線があっちにこっちにと揺れ、一通り落ち着いたところでシエリを見つめた。当時のシエリは愛嬌のある顔立ちで、笑うととても朗らかで可愛らしい。
「分かった。……結婚してくれ、シエリ」
シエリの赤らめた顔が、とても幸せそうだった。
「えぇ、喜んで」




