その860 『少シズツ前ニ』
子供の拳の上にぽつりと雫が零れた。一粒、二粒。それを見て、ブライトは確信してしまった。
――――ヒューイは、死んだのだ。
だから、子供が泣いている。勝手に自分たちを置いて死んだことに憤りを感じている。
ブライトは当たり前のように、ヒューイは生きていると思っていた。ブライトがなんだかんだ生き続けているように、孤児もどうにか暮らしているものだと思い込んだ。
それは、ブライトの浅はかな思考だったのだと気づかされる。孤児のいる地下水路が魔物だらけなことは身をもって知っていたはずだ。食べ物も、盗みを働かないとどうにもならないほど窮していることを察していたはずだ。そして、ヒューイはミドという少女を探していた。ただの迷子であったら良かったが、『魔術師』が絡む以上何かに巻き込まれる危険もある。
にもかかわらず、何故命だけは守られていると錯覚していたのだろう。彼らは簡単に亡くなるのだ。それほどの危機に常に晒されているのである。
「力不足で、ごめんね」
つい謝罪の言葉が出た。セラの咎めるような視線は、ギルドの人間が近くにいるのにと告げている。けれど、どうしても謝りたくなったのだ。
「何で、あんたが謝るんだ」
子供は、理解できないものをみたというように、ブライトを睨みつけている。
「あたしが何にも知らないせいで何もできないでいるから」
「何だよそれ」
「教えて欲しいんだ、君たちのこと。少しでも。駄目かな」
子供の表情は変わらない。警戒を解かないままに、しかし子供はぽつりと零した。
「ナキサ」
「ナキサ?」
「私の名前」
それで、はじめて子供が女だということに気がついた。短髪で薄汚れていて女子らしさはまるでない。声も押し殺していたし、分かりづらかった。正直、まだ幼いから声変わりしていないのだと思っていた。
「ありがと、ナキサ。それで?」
「それでってなんだよ」
「えっと、例えば、君は何が好き?」
本題に移ると警戒されると思ったので、遠回りに聞いてみる。
「は? 好きとか嫌いとか、別にない」
「そうなの? でも、串肉は特別なんだよね?」
露天商で被害に遭ったのも、串肉屋だ。
「別に。食えれば何でもいいし」
「んん? ヒューイは確か……?」
首を捻ると、ナキサは呆れた顔をした。
「あいつはあいつだろ。私は、そんなのどうでもいい」
なるほど、好みが違うらしいと解釈する。
「じゃあさ。ナキサはどうして孤児になっちゃったの?」
「ライ様」
セラが先ほどとは別の非難の視線を向けてくる。どうもぶしつけ過ぎたらしい。
「別にいいよ。うちは元々父さんが兵士で魔物に食われて、母さんが人狩りにあって帰ってこなくなったってだけ」
「人狩り、ですか?」
セラははじめて聞いた言葉だったようで、思わず問い返している。
「は? そんなのも知らないの? 人狩りは人狩りじゃん」
ナキサが驚いた顔をする。ブライトは以前ヒューイに聞いていたことがあったから知っている。ただ、今の今までそのことを忘れていたのは事実である。人狩りなど、正直ごく少数の話だと思っていたのだ。この世界で一番大きいのは魔物被害だ。巨大な魔物が発生したときに、駆り出された騎士団こそが多く亡くなる。だから人々は魔物の情報を聞いて、なるべく魔物を避けて生きている。逆に言えば、魔物にさえ気をつければ危険は少ない。そういうものだと思っていた。
「シェイレスタじゃよくある人攫いだ。誰かがどこかに売っているらしくて、そいつらの仕業と思われるときに人狩りと呼ぶことにしている」
人狩りの情報は、ギツが詳しかった。彼の解説に、
「そんなの、一体誰が」
とセラが信じられない顔をする。
「こういうのは大体お偉いさんの仕業だろう」
お前らのくせにしらを切るなとでも言いたそうな顔をされた。しかし、庶民を売って得をするような『魔術師』がいるのだろうか。それに、アイリオール家の領地でそうした行為を行っていたとしたら到底許されるものではない。だから、『魔術師』の仕業ではないとブライトは判断する。
「それは、どの程度の被害になっているのですか」
改めて確認しようと思って質問したのだが、ギツには指を輪にして合図された。腹が立ったので、ゴールドを投げつけてやる。
「シェイレスタ一帯で起きていることだ。しかも結構昔からあったと思うぞ?」
聞いていると、アイリオール家だけに限らないようだ。
「『魔術師』たちはそれを問題視していないのですか? 住民がいなくなれば、当主の責任になるはずです」
他の『魔術師』の動向を聞きたかったのだが、ギツには肩を竦められた。
「いやいや、お貴族様が把握している住民なんて、殆ど純民くらいだろうさ。俺等みたいなギルド所属の奴らや、貧民の一部は存在することさえ把握されていやしない。それがいなくなったところで、誰が報告するよ?」
いてもいなくても困らない。そういう人間からいなくなるから、話題に上がらない。
血の気の引くような恐ろしい話だ。だが、嘘ではないだろう。孤児の実態を把握していないブライト自身が何よりの証拠だ。孤児は貧民の代表だ。彼らが知らない間にいなくなっても、まさにブライトは感知していなかった。
「それで、ナキサをどうするつもりですか」
一通りの話が聞けたところで、セラがブライトに尋ねた。ナキサがそれを聞いて、びくっと肩を震わせる。
「ナキサ次第かな?」
ブライトは少し悩んでから、ギツに質問を投げかける。
「ギルドは、何歳から仕事を受けられるのですか」
「は? そんなもん、決められていねぇよ。けど、このぐらいの餓鬼は最近見ないな」
恐らくだが、国ごとで成人年齢も違うために規則は設けていないのだろう。しかし、明らかに小さな子供に仕事は斡旋していないとみた。
「じゃあ、個人的に出すしかないか」
「ライ?」
不穏な気配を感じたのか、セラから警告が入る。
「ナキサはさ、お金があったら食べ物を盗まないよね?」
セラを無視したせいか、じりじりと視線が来て仕方がない。
「何? くれるの?」
「勿論、ただじゃないよ。ちょっと簡単な仕事をしてほしいだけ」
「お嬢さん、それ露骨に怪しすぎるぜ」
ギツにまで突っ込まれてしまったことを心外に思う。よほど怪しい仕事の片棒を担がせようとしているように見えるらしい。
「悪いけど、仲間を売ることはしない」
何故か格好良く言い張るナキサに、自己の見え方を苦悩しつつブライトは続けた。
「周りにいる孤児の仲間の声を聞いて教えてほしいだけなんだけど」
「声?」
「そう。皆が何を思っているのかとか」
ナキサはまだ戸惑い顔だ。
「そんなの、腹減ったとか暑いとか寒いとか……」
「そうそう、そういうの」
ナキサが理解できない顔をした。
「そういうのくれたら、とりあえず串肉屋さんにはあたしから弁償するし、ナキサと友達の今日のご飯代ぐらいは出すよ」
「……なんで? 頭、大丈夫?」
よほどおかしなことを言っていると思われているようだ。とうとう、ブライトの頭を心配されてしまった。




