その86 『それは本当に夢?』
その夜、イユは夢を見た。
誰かの悲鳴が聞こえたかと思うと、視線が殺到する。突き刺さるそれらに耐えきれずに下を向けば、真っ黒な血で汚れた自身の手があった。身に覚えのない行いにぎょっとした。非難の声が耳に届き、指が突きつけられ、世界が震々と震えた。意味が分からないままのイユにできたことは、その場から逃げ出すことだ。息を乱して、暗い世界を走り抜ける。そうして逃げ続けるイユの背後へと、何かが追ってくる気配があった。全力で逃げているはずであるのに、確実に追い詰められていく感覚がある。あっと思ったときには、逃げきれずにイユの身体が前のめりに地面へと倒れた。
重たい何かは背中に乗ってきて、起き上がろうとしたイユを押しつぶす。その何かが一つでないのだとそのときに気が付いた。イユに襲い掛かってきたそれらは恐ろしい程いて、次々とイユに覆い被さろうとする。
重さに耐えきれず、悲鳴を上げた。加えて、その何かの感触にぞっとする。冷たいそれは、イユの身体を覆うだけでは飽き足らず、イユの身体を通り越して心にまで入り込もうとするのだ。それは、ちょうど魔術師たちがイユの記憶を覗こうとしたときと同じ感触だ。心臓に向けて手をあてられただけなのに、そこから確実に冷たい指が伸びてきて自分の心を壊そうとするような恐怖が、今この場にもある。
身震いしようとしたが、身体はもう言うことを聞いてくれなかった。息苦しさに泣き出すことさえできないでいる。このまま自分が自分でなくなっていくのだと気がついたとき、反射的に手が動いた。
何故、急に動けたかは分からない。ただ、必死に覆い被さってくるそれらを慌てて振り払う。何度も払って、立ち上がって逃げ出して、ようやく息をついたとき、イユはセーレの甲板に立っていた。
「え……?」
見回すが誰もいない。風もないのか張られた帆はなびいてすらいない。零した息だけが白く、その場に少し留まって消えていった。
何が起きているのかわからないままに、恐る恐る歩き出す。甲板内を探しても、誰もいない。見張り台に登ってみた。シェルの姿を期待するが、いない。見張り台から見渡しても、やはり誰もいない。遠くで動かない雲が見えるだけだ。仕方なく下りる。最後にもう一度甲板を一周すると、途端に不安が襲ってきた。
「誰か、いないの」
零した言葉に、やはり返事はない。
――――誰でも良い。知っている誰かに会いたい。
人の姿を探して廊下を走る。すぐに扉を見つけて、ゆっくりとドアノブに触れる。くるりとそのドアノブが動いた。鍵がかかっていないのだ。慎重に、開けてみる。イユの部屋と同じ作りをした部屋が僅かに開けた扉から見てとれた。テーブルの上に羽ペンが置かれていることまで確認する。しかし、人の気配はしない。
扉を閉めると、その隣の部屋の扉を開けた。またしても、鍵はかかっていない。覗いた先に、同じような部屋が見える。水の音が聞こえてきた。誰かがシャワーに入っているのだ。そう思って、心底ほっとした。シャワーに入る人間が鍵を閉めないというおかしさには微塵も気づかなかった。人の姿を求めて、シャワー室に近寄る。はたからみたら、これは覗きだ。褒められる行為ではないだろう。
しかし、不安に勝てそうになかった。何でもよかったのだ。どういう事態が起こったとしても、知っている何かに出会いさえすれば、この感情からは解放されると確信していた。
ところが、シャワー室に近づいたことで違和感に気付いた。カーテンの奥からは確かに水の音が流れてくる。しかし、そこにいるはずのシルエットが見えない。思い切って、カーテンを引いた。
次の瞬間、驚いた声が聞こえでもするだろう。そう願ったが、そうはならなかった。バスタブは空っぽだった。ただ、シャワーから僅かな水だけが流れていた。
再び廊下へと戻った。心臓がバクバクいっている。何かがおかしい。しかし、おかしいとわかるだけで、その答えが出てこない。恐る恐る次の扉を開ける。
どれだけ開けても同じだった。どの部屋にも、誰もいない。いるはずの人がいない。焦燥がイユを覆った。その焦りに身を任せて、しまいにはイユ自身の部屋まで開けた。当然のように、誰もそこにはいない。ブライトが入れられた部屋にも、クルトの部屋にも、リーサの部屋にさえ、人の姿はない。思いつく部屋の全てを当たった。航海室すら覗いたが、誰もいなかった。舵だけが一人でに動いていて、じっと見つめていると、ゆっくりと止まった。無人の船に乗っているのかもしれないと思わされた。恐怖がイユを蝕んだ。そして、とうとう残すは食堂の扉だけになった。
食堂の扉はセーレの中心にあるのだ。だから、開ける機会はいくらでもあった。にも関わらずそうしなかったのは、きっと予感があったからだろう。
扉の前で立ち止まったイユの足には恐怖という鎖が繋がれていた。その鎖の重みに従って、しゃがみ込みたかった。ずっとそうしていたら、この先の光景を見なくてすむ。そう思った。しかし、いつまでそこでそうしていても、ただ苦しいだけだった。
遂に耐えかねて、食堂の扉を開けた。そして、イユの視界は真っ赤に染まった。
――――血だ。
幅広の階段に滴りおちる赤いそれが、白いテーブルクロスを真っ赤に濡らしたそれが、シャンデリアにさえこびりついたそれらが、イユを歓迎するように鮮やかに広がっている。
目の前にあったのは船員たち皆の死体。手前にクルトが倒れていて、その隣にマーサが、さらに奥にはリュイスがいた。シェルが双眼鏡を守るようにして崩れ落ちている。
その周囲の赤い血が波のように揺れた。声にならない悲鳴をあげてイユは思わず食堂から出ようとする。そして、そこでいつの間にかイユの背後に回っていたリーサと鉢合わせた。
「リーサ? 良かった。無事だったのね」
リーサはにっこりと笑みを浮かべている。ほっとするのも束の間、そのリーサの腹部からナイフが飛び出ているのに気づく。
「だ、誰がこんなこと……」
そう零しつつもイユはこの惨事の犯人を知っている。リーサがそれに答えるように、指を向ける。
指の先にいるのは、イユだ。
「ち、ちがう……!」
反射的に叫んだとき、リーサの顔が歪んだ。
「何が違うの?」
リーサの口から吐き出された言葉は、彼女のものではなかった。しかしそれは、間違いなくイユが聞いたことのある声だ。異能者施設を脱獄して、死にかけたときに見つけた馬車の……。
いつの間にかうつむいていた顔をあげる。目の前にいたはずのリーサがいなくなっていた。代わりに、確かに死んだはずの、女が立っていた。
「あなたが殺したのよ」
今度は違うとはいえなかった。気づけばセーレの風景は掻き消え、雪原にいた。イユを中心に鮮血が広がっている。
「ごめんなさい……」
言わなくてはいけない言葉だった。夢の中でしか言うことのできない言葉だ。
何度も繰り返し謝るが、女の目は冷たいままだ。だんだん、堪えられなくなってきた。
「生きたかったの……! 生きなければいけなかった……!」
声を振り絞り、女に殺した言い訳を叫んだ。同時にその言い訳はイユを自覚させた。
イユは散々自分のために人の命を踏みにじって生きてきたのだ。それが自分の生き方だった。そうしなければ生きられないと言い訳を続けてきた。
言い訳を続けるイユの頭に浮かぶのは、イユを捕えようとする兵士や魔術師だ。縋りつきたくなった。
イユがあくまで殺したのは、魔術師たちだ。イユが見捨てなければならなかったのは、魔術師のせいだ。
女にぶつけた。
「それに、あんたは魔術師よ……! だから……! 全てあんたたちが悪いのよ!」
叫びながら、ブライトのことが頭にちらついた。彼女は異能者でも龍族でも助けようとしていたと。
――――魔術師だから、なんだというのだろう。
イユは沸いてしまった違和感に気づく。それを見透かされていたのかもしれない。
「そうね」
その言葉とともに、女の姿が掻き消える。
思わずほっとして、その場に崩れ落ちた。分かってくれた。ようやく消えてくれた。そう思ったのも束の間、イユの背後からささやき声がする。
「仕方がないわよね。それが『約束』なんだから」
はっとした。驚きに目を見張るイユの背後で、夕焼けのような美しい色の髪をした女が立っている。その女に優しく頭をなでられた。そうして囁かれ続ける。
「『約束』のためなら、何をしてもよいのよね?」
質問の答えがわかってしまって、イユは絶句した。反論の言葉が、何もでてこない。
声にならない叫び声をあげ、イユは頭を撫でようとする女の手を振り払った。何もかも、全てが怖かった。
だから、ひたすら走り続けた。何もない真っ暗闇を、一人で、延々と走った。そうして走り続けて……、そして……。




