その845 『ドノ世界デモ』
許されるのならば、帰りたい。
そう心のなかでだけ、唱える。ブライトは当主になることを選び、成人の儀では男装をした。故に、嫁ぐつもりがないことを周囲にも主張した通りだ。男とどうこうするつもりはまるでない。というより、ここまでそうしたことを考える機会もなくきている。昔はお見合いの手紙が来ていた気もするが、その手のものはある日を境に全く途絶えているのだ。
「さて、今回皆様にお作りいただくのは、初心者向けの薬です。少しだけご自身が綺麗に見えるものです」
キキラの説明で、媚薬といってもいろいろな種類があるようだとは考える。恐らくは、かなり軽いのだろう。あまりに強ければ、それこそ完全な違法行為として取り締まられる。仮にも主催者が王家の家庭教師をしているのだ。堂々と違法行為のサロンを開催するとは思えない。恐らくは、違法ではないすれすれを狙っているはずだ。
「ですので、作るのはこの小瓶になります。小瓶なら何でも大丈夫ですので、参考にして下さい」
そう言って、キキラが小瓶を令嬢の一人に渡す。数十滴入れば良い程の小さなものだ。手渡された令嬢が小瓶を他の令嬢に渡していく。小瓶程度の事なのに、熱心にメモをとる令嬢もいた。小瓶に触れてサイズを測る者までいる。
「ブライト様も、こうした薬をよくお使いになるのですか?」
セセリアから小瓶を受け取りながら、無邪気にされた質問に少し戸惑う。全く経験はないが、ここで否定したら何のためにサロンに参加したのかとセセリアに訝しまれるだろう。まさか、セセリアに近づく為とは言えまい。
「はい。女の嗜み程度ですが」
果たして普通の女が媚薬を持参するものなのかは知りたくもないが、そうぼかしておくよりない。
セセリアが返答するより先に、キキラから説明が入る。
「さて、調薬の際には危険ですので必ずマスクや手袋はするようにして下さい。特に普段調薬に慣れていない皆様は、恐らく相当苦労されると思います。なので、決して見栄えがよろしくないからとマスクをしないということはやめて下さい。何度も言いますが、危険ですので、再三注意させていただきます」
令嬢たちは不安そうな顔を浮かべている。確かに何度も危険と言われたら、不安にもなるだろう。
「今回は、皆様に代わって私の方で実演させていただきます。手順を間違えてしまいますと、効果が出ませんのでお気をつけ下さい」
キキラが手袋をはめマスクをし、いよいよ調薬に入ると令嬢たちの目つきが変わった。生き物の生き血の扱いについて説明するキキラをまじまじと見つめる彼女たちの眼差しは真剣で、そこから絶えず熱量を感じとれる。
理解しがたい光景に、ブライトは自身が浮いているのを実感した。とてもでないが、男に媚薬を飲ませてまで誘惑しようとする彼女たちに共感できそうになかったのだ。確かに、ブライトは自分のことを美人とは思ってもいないし、周りにもお世辞以外で褒められたことはない。だから綺麗に見えると言われたら、多少媚薬に興味は持てるかもしれない。
けれど、ここにあるのはそれ以上の熱意だ。まるで、ここで媚薬を手に入れられなければ明日がないと考えているかのような、ぴりぴりとする命がけの必死さを感じるのである。
相手を射落とさなければ家の安寧がないからか、と考えてからそうではない気がした。特にセセリアの余裕のない表情から、本当に彼女たちは自分の生き残りをかけているように見受けられたからだ。
そもそも、シェイレスタの女は立場が弱い。男と張り合って当主争いをするブライトのような存在は稀だ。普通は相手を見つけられなければ家を追い出され食べていけなくなる。特に年を取って可能性がなくなればなくなるほど、崖っぷちに立たされている気分になるだろう。そこからくる必死さなのだ。
――――それならば、ブライトにも覚えはある。
男を魅了するのに必死な彼女たちは、決して他人ではないのだと気づいた。当主争いの話題さえ上がらなければ、きっとブライトたちはジェミニに家を追い出され露頭に迷っていた。同じ立場だと思えば、共感もできる。それに、種類こそ違えど、命の危機ならばブライトも何度か経験してきた。きっとそれも同じだ。
そう思ったからこそ、ブライトはこれがなければ死ぬのだと思いこむことにした。きっと、この媚薬は解毒剤だ。いつ死ぬかもしれないと怯える恐怖の毒を解消するための、特効薬なのである。
「では、ここですり鉢を使います」
キキラの説明に、セセリアの拳がぎゅっと握られる。それを見て、難しさを感じていることが伝わってきた。確かに調薬経験がない人間には、複雑な手順だ。
これならば、関係を繋げやすい。ブライトは一旦挟まれた休憩の時間に話を振ることにした。
「今度、舞踏会のお誘いがきているでしょう? 実はあたし、少し不安でして、前日に一緒に調薬を致しませんか?」
大きな舞踏会のお知らせは、実際にブライトに届いている。規模からいって、セセリアにも来ているだろう。
「まぁ! それは是非。私は最近物忘れが激しくて、正直不安でしたから助かります」
セセリアに頼んだ結果、いとも簡単に乗ってきた。やはり、調薬の過程が不安だったのだろう。加えて、媚薬の調合など普通は隠そうとするものだから、数少ない秘密を共有できる仲間意識や安心感もあるのだろう。だからきっと話に乗ってくるとは想像できていた。その通りになったので、ブライトとしては内心ほっとする。これで収穫なしだったら、骨折り損だ。
「それにしても、ブライト様にも気になる殿方がいらっしゃいますのね? どのようなタイプがお好きか、お聞きするのは野暮かしら」
命がけで特効薬を手に入れようとするブライトの表情が伝わったらしいと解釈する。セセリアには好きな殿方がいるように見えたのだろう。
ブライトはにこりと笑って答えた。
「そうですね。あたしより魔術に造詣の深い方、でしょうか」
そのような殿方は、残念ながら存在しない。




