その824 『愚痴ヲ聞イテクレル人』
結局、タタラーナにはサロンの約束を取り付けるので精一杯だった。あとは、ろくに考えることもできないまま紙切れのようになって、ラクダ車に乗った。美味しいはずの食事も今にして思えば、やはり紙を食べているように味気がなかった。今度はいつかブライトがタタラーナを招待する必要があるが、肝心な振る舞われた味を覚えられないブライトに、タタラーナを納得させることはできると思えなかった。
「ただいま、帰りました」
重大な案件だ。帰り道に王立図書館で論文の真偽を確かめた。間違いないことが分かったので、すぐに母に報告に行った。一言一言話すのが億劫で、はじめから記憶を読んでほしかった。母の苛立ちが寝室の奥から吐息として溢れてくるようで、終始びくびくしていた。
『記憶を』
いつもの紙とともに、記憶を覗かれる。息苦しさのなかで、ブライトの意識は何度かタタラーナの笑みを思い起こす。やりこまれた気がしていた。ろくに言い返せなかった。ブライトには魔術しかない。それがなければ、ブライトに誇れるものなど何も残らない。
衝撃が頬に走り、意識が途切れたことに気がつく。慌てて起き上がりながら、再び長い悪夢の時間を彷徨った。
部屋に帰るため廊下を歩いていると、セラがブライトの部屋の前で待っていることに気がついた。
「お疲れ様です。ハリー様から、数刻前に戻られたとお聞きして……、ブライト様?」
ふらついているのが、ばれたのだろう。ブライトは視線を反らした。青白い顔まで見られたくなかった。
「あ、うん。挨拶に行くのが遅くなってごめんね」
「構いません。それより……」
「うん、一旦着替えるね」
部屋に入ったら、セラまでついてきた。
「お着替え、手伝います」
「大丈夫だよ、一人でいつもやっているから」
「手伝います」
頑なに言われてしまった。断れずにドレスを脱ぎ、動きやすい格好へと着替える。
そうしてから、テーブルの方から漂ってくる美味しそうな匂いに気がついた。
「もしかしてもうご飯が用意してある?」
「あ、はい。私が作りました」
セラが、ミヤンを手伝ったらしい。料理をセラが引き受けて、それ以外をミヤンが担当したのだろう。ふと、力が抜ける感覚があった。頬が強張っていたことを意識する。ようやくセラの顔をまともに見られた。
「そっか、ありがとう。一緒に食べようか」
「はい」
セラが作ったサンドイッチは、色鮮やかで見た目からして美味しそうだ。野菜や鶏肉がいっぱい入っていて、頬張るのが大変だった。口にした途端、とても優しい味がした。
「セラの作るサンドイッチ、美味しいね」
「ありがとうございます」
ついつい食べるのに夢中になってしまう味だ。何故だろう、ミヤンには悪いが、ミヤンの作るものとは全く違うのである。
暫く夢中で食べていると、遠慮がちにセラから口を開かれた。
「……あの、何があったか話してはくれませんか」
「ん?」
セラは真剣な目で、ブライトを見つめている。その目に、どきりとした。
「ブライト様。私の役割は、ブライト様の愚痴を聞くことだったかと」
確かに言った。そうしてくれる人が欲しかった。
「う、うん。けれど、あたしとしては今日のセラの話が聞きたいかなって」
「そのお話はブライト様の後で致しましょう」
セラは妙なところで頑固らしい。どちらが主か分からない剣幕で迫ってくる。それだけに、ブライトはしどろもどろになる。
「うっ、そうなんだけど、ちょっと言いたいことが纏まっていなくて」
言いながらも、嘘だと頭の中で警報が鳴った。ブライトは先程母に報告をしたばかりなのだ。言うことならば、その時点で纏まっている。
けれど、口にして言えなかった。上手く相談できる気がしなかったのだ。
「構いません。たどたどしくても、それを聞くのが私の役目です」
真っ直ぐに言葉を掛けてくるセラが眩しくて仕方がなかった。
なんと熱心な商品を買ってしまったことなのだろう。ブライトは、頭を抱えたくなった。
結局、話すことになった。上手く言えなかったし、話さないこともまだあった。特に母のことはまだ内緒にしていた。ブライトが話したことは母に後で見られてしまう。もしセラが、母に否定的な態度をとったらと思うと、言えなかった。
「つまり、政争争いで苦慮されているということですね」
話を纏めたセラは、さっぱりと告げた。
「ブライト様が他の点でも優秀であると示せば良いのではないでしょうか」
正論だが、それが難しい。
「あたしには魔術しか」
「そうでしょうか? それに、魔術しかなかったとしても、たくさんの魔術を使われるのですよね?」
確かに、ワイズが出した論文は治癒魔術一つだ。念のため王立図書館で調べたが、他の論文は出していないようであった。
「詳しくはよく分かりませんが、論文をいろいろ出すのもありなのでは?」
セラの提案に、ブライトは堪らず首を横に振る。
「いや、その時間も資金もないんだけど」
「私がお手伝いします」
セラは断言した。そこには一切の迷いがない。それどころか、提案してくるのだ。
「とりあえず、このあと執務室に行きませんか? 見てほしいものがあるのです」
「えっと、セラの話は?」
少しでも話を反らそうとしてみたのだが、セラには効かなかった。
「私の話はそこでします」
と、明言されてしまった。




