その821 『夢ニマデ見タ相談事』
「幻滅されましたか? きっと安くない買い物だったでしょう」
セラの問いかけにブライトは首を横に振った。
「いや、痛み止めに効く薬の調合ぐらいできないかなって。前もあったんだよね。薬に対する知識がもう少しあればよいのにって思ったこと」
ブライトは階段から下りるとくるりとセラを振り返った。
「決めたっ! あたし、薬学ももうちょっと勉強するね。本は屋敷にあるはずだし」
セラは戸惑った顔でおずおずと頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ただ勉強時間が確保できなくてさ。セラにはできたらそこも助けてもらいたいかも」
再び歩きながら、セラの疑問の声を拾う。
「私の助けとは?」
「うーんと、指だけなら一時的にあたしに化けるとかできない?」
「は?」
ぽかんとする声に、ブライトは取り合わなかった。先に厨房に着いたからだ。
「ここ、ここが厨房だよ」
厨房は、驚くほど閑散としている。包丁や鍋は出しっぱなしだし、まな板もそのまま立てかけられているのは、ミヤンが片付けをしていないからだ。当時であれば、よく調理場へやってくるブライトを心配して料理長が必ずしまうようにしていた。
広い調理場のなかで調理器具がぽつぽつと散らばっているせいで、余計にもの寂しくみえるのだろうと解釈する。
「ここにある調理器具でてきとうにご飯を作ってもらえれば」
「あの、食材はどうしたらよいですか」
「それはこっち」
別室の扉を開けてセラに中身を見せると、声を上げられた。
「かなりたくさんありますね。失礼ながら、結構なものが傷んでいるようにも見受けられますが」
目敏いものだ。ブライトではぱっと見ただけでそこまでは気がつけない。セラが『異能者』として捕まる前は、娘に料理を振る舞うため、食材にも気をつけていたのかもしれない。
「ここにいる屋敷の人間の数じゃ食べ切れないんだよね。腐る前に鼠にあげるようにはしているけれど」
セラがどこから突っ込んだら良いか分からないという顔をした。
「減らせないのですか」
「人手が減ったことが市民にまで噂になるのは困るかな」
勿論、数名分は減らしている。父がいなくなり父の周りにいた者がいらなくなった分と、家庭教師が不要になった分は説明がつくからだ。
しかし、それ以外は減らせない。『魔術師』の動向を、市民は敏感に察知している。そうして流れた噂を他の『魔術師』が入手すると、ブライトは領主経営どころか自分の屋敷の人手さえ満足に管理できない無能だと言われかねない。
――――事実だけどさ。
心のなかでだけ、そう呟く。人が次から次へと減ったのだから、普通は代わりに雇うものだ。それさえままならずに、残った者に負担を掛けている。
「腐った分は廃棄ですよね? それでは廃棄されているところを目撃されれば結局噂になるのではないでしょうか」
「一応そうならないように燃やしてかさを減らしている感じかな」
多少の量ならば怪しまれないという判断だ。ちなみに噂だけが理由ではない。市民から買い上げた分がなくなれば市民もまた生活に苦しむだろう、というのもある。貴族からの収入は、市民にとって間違いなく馬鹿にならない利益になるからだ。
「鼠が、いるんですか」
「魔術の実験でどうしても。人で試すわけにはいかないから」
嫌なものを呑み込む顔をしているあたり、セラは鼠が嫌いなのだろう。
「とりあえず、理解しました。なんとなくお役に立てそうな気がしてきました」
よく分からないが、セラはどうしてか気を強くするように自分自身に告げているように見えた。
「そう? まぁ、困ったことがあったら言ってね。あとは……、執務室に行こうか」
廊下に出ながら、セラに告げる。
「普段は自由にして良いけれど、念のため慣れるまでは屋敷の外には行かないほうがいいかな。多分、暑すぎて途中で倒れるから」
イクシウス出身者に砂漠の都は暑すぎるだろうことは最低限の知識として知っている。
「慣れたら外に出ても良いのですか」
「うん。ハリーが買い出しに行っているからそこについていくぐらいは全然。図書館にも行ってもいいよ。ただ、一人で歩くのは危ないかも」
地下水路を思い出してから、さすがにそれは大丈夫かと思い直す。
「シェイレスタって女の立場が弱いんだよ。誰かに誘拐されて何かされても文句一つ言えないからね」
「かしこまりました。では、出掛けるときは誰かに頼むとします」
「うん。あ、図書館行くならウィリアムと行くのが良いかな。慣れているから」
そうこうするうちに執務室にたどり着く。部屋を開けたブライトは第一声、セラの絶句を聞いた。
「いやー、凄い書類の山でしょう」
今日は特別区域に出ていたこともあり、いつも以上に積み上がっている。
「これを一枚一枚サインするのがあたしの領主としての仕事なんだよね。で、相談なんだけど、あたしの指だけ変身してあたしの筆跡を真似られないものかな」
夢にまで見た相談事である。
セラの反応を伺っていると、おずおずと挙手をされた。
「はい、どうぞ」
「書類を拝見しても良いですか」
「勿論。今から幾つか片付けるから、気が済むまで眺めてくれれば」
ブライトは着席すると、上から順に書類の山を取る。一枚目は、露店の営業許可書だ。内容は、サボテンの花の販売。承認欄にサインを入れていく。
そうやってサインをしているうちに、セラがじっと見てくるのに気が付いた。
「どうかした? 手伝えそう?」
セラは首を横に振る。
「多分変身はできますし筆跡も真似できますが、サインはブライト様がやるべき執務かと存じます」
――――なんと、真面目だった。
ブライトは内心で頭を抱えた。できるのであればやってほしいのだが、セラはどうもそういう点厳しいらしい。
「あー、駄目?」
「駄目です。大体、ブライト様は今ちゃんと書類に目を通されていますよね。サインを私がしたら目を通さなくなるのではないのですか」
一応確認ぐらいはするつもりだったと小さく言い訳する。小声になったのは、正直に言って自信がないからだ。人間、楽を覚えると楽な方向にしかいかないものである。セラに任せてそのうち書類を見なくなるかもしれない。
「でも、正直読んでも理解できないからよくわからずにつけてるし、大して変わらない……、あぁ、いや、そこをなんとか」
途中で睨まれたので頼み込む形に変えると、
「どちらが弟子ですか」
と言われた。正論である。
「とはいえ、ブライト様のご苦労も分かります。あちらがスケジュールですよね?」
ブライトが以前作った予定表だ。机に置かれたままになっている。
「次の執務の時間までには私なりに考えておきます」
サインはなしというのに何を考えるのか、ブライトにはよく分からなかった。




