その816 『娘ノ名』
特別区域には、談話ができる部屋がある。小部屋に椅子とテーブルがあるだけの質素な部屋だが、牢で会話するよりはずっと良い。ヴァールが席を外している間に、セラとブライトとで隣に座った。
「その怪我、酷いよね。痛くない?」
頬の怪我を見ながら、とりあえずなにか冷やすものがないかと思案していると、
「大丈夫です」
と小声で返ってきた。声も枯れたままなので、早く水をあげたいところである。
「あの、先程の話ですが」
おずおずとセラが声を掛ける。その視線の先にヴァールが出ていった扉がある。聞こえてはいけないことなのだろうと察して小声を意識しているようだ。
「詳しく聞いても良いですか」
ブライトはセラの行動に満足した。元々セラは中々手に入らない『異能者』だ。それだけでなく、セラは愚かではない。
「話したいけど長くなりそうかな。ただ、当面してほしいことは……」
サイン、と頭に過ぎったが、変身の魔術で筆跡まで真似られる保証はない。それはあくまでブライトの願望であって、現実的ではないのだ。ともすれば、やってほしいことは限られてくる。
「あたしの話し相手になることかな」
言い切ると、戸惑いの表情を浮かべられた。何やら間違えたらしい。
しかしながら、ブライトなりに考えた結果、今欲しいのは愚痴を聞いてくれる相手なのである。
詳しく説明しようか悩んだところで、扉のノック音が響いた。
「お待たせしました」
入ってきたヴァールの手には書類がある。同行していた付き人が水を配った。カタラタは変わらず外に立たせているようだ。先に飲んでみせたヴァールに従って、グラスに口をつけると、心なしか冷たさが身に沁みた。
隣を見やるとセラが手錠をつけたままの両手でグラスを手にしたところだった。手錠のせいで飲みづらそうである。
「さすがに外せませんよね」
ヴァールに確認すると、当然という顔をされた。
「危険過ぎます」
仕方なく肩を竦めたところで、書類を机の上に置かれる。
「察するに、お気に召したということで良かったですか」
こくんと頷いてからブライトはセラを見つめた。
「セラの返事を聞いていい?」
グラスを置いたセラもまたブライトを見つめ返す。
「私に決定権があるのですか?」
声は水のお陰でしっかりとしている。故に、凛として響いた。
「うん。嫌なら無理強いはしないよ」
本当は喉から手が出る程人手が欲しいが、それはなるべく顔にしない。ブライトはこう考えている。
本人に、イエスと言わせれば勝ちなのだと。
正確には、勝負とは思ってはいない。ただ、人の心を魔術で操ることのできる立場だからこそ、学んだことだ。人の心に無理をさせれば、どうしても軋んでいく。それが行き過ぎた結果、心が壊れ使い物にならなくなる。本来ならば届くことのない貴重な『異能者』だ。大事に扱いたい。それに、不要な犠牲はこれ以上出したくはない。
「一つ、条件があります」
ブライトの思惑を知ってかどうか、セラの強い視線がブライトに突きつけられた。
「その条件を呑んでくださったのならば、私のことは好きにしていただければ構いません」
愚痴を聞く話し相手なら構わないといった軽い気持ちで話しているわけではないようだ。そこには、セラの覚悟があった。
「何かな」
ヴァールの警告の視線をひしひしと感じる。ヴァールは、基本的に心を魔術で歪まされた『異能者』ばかり相手にしている。故に、明確に自分の意志を持った『異能者』と対等に会話をすることに危機感があるのだろう。実際、セラが自由に異能を使えたら、法陣をいちいち描かないといけないブライトたちではあっという間に制圧される。だからこそ、正しい警戒だといえる。
一方で、ブライトは理解の姿勢を示さないといけないと考えている。そうしなければ、セラはブライトを信用しないだろう。ギリギリのところまではセラに親身になるべきだ。
手枷を外せと言い出されやしないかと内心ひやひやしながら発言を待っていると、セラの口がようやく開かれた。
「娘を探す手伝いをしてほしいのです」
意外な話に興味が湧いた。
「娘さん?」
「娘も『異能者』なのです。一緒に捕われたのですが、離れ離れにされてしまい……」
ちらりとブライトは見やった。
「イクシウスから来た他の『異能者』のリストを確認しても良いですか?」
ヴァールは苦い顔をした。
「ブライト様。そこまでするのは」
「お願いします」
すぐに頼み込めば、ヴァールは折れた。追加料金は取られそうだが、その程度は致し方ない。
すぐに付き人によりリストが渡される。お礼を言って受け取った。
「娘さんの名前は?」
綴られた名前の一覧はそこまで多くない。ただ、名字の記載までない場合もある。だから、ブライトは聞いた。
「リリスと言います」
探しているという娘には、アマリリスの花からとった名がつけられているらしい。鮮やかな花が脳裏に浮かび、良い名をつけるなと感心した。




