その811 『ゴ対面』
とはいえ、実際に家庭教師としての職務を成し遂げなければ、きっとブライトの立場はすぐに悪くなる。そう戒めて入念に準備をし家庭教師初日に訪れた王城、エドワード王子と会うはずの部屋でブライトは早速立ち尽くした。
部屋の中が空っぽだからである。待っているはずの当人がいない。
「あたしの記憶では、あたしが家庭教師になるのはエドワード王子の希望でもあるという話だったような?」
それならば、本人が部屋で待っていて然るべきだろう。部屋まで案内した執事のほうが、ブライト相手に恐縮して頭をペコペコ下げている。それを見るに、王家の嫌がらせというわけではなく、王子の勝手な行動らしい。
「大丈夫です。少し待つとします」
にこやかに執事に返し、執事に勧められた椅子に座って待つ。案内された部屋はさすがにブライトの屋敷の部屋よりもずっと大きい。天井は高く、吊るされたシャンデリアは部屋の中の隅々まで光が行き渡る。中庭からの陽の光が窓から入るようになっているが、人工の光で十分過ぎると感じた。
部屋の前にある大きな黒板はブライトが背伸びしても届かないほどで、机は王子一人が座るには広すぎる。もし王子に友人がいてそのほうが勉強が捗るのであれば、複数人呼んで同時に講義しても良さそうだ。
部屋にはブライトが入ってきた扉とは別に、もう二つ扉がある。その一つは開け放たれていて、奥の部屋の様子が見えた。王子が寛ぐための部屋なのか、分厚い木のテーブルがある。見え隠れするのは、赤い羽と鳥籠の一部だ。鳴き声一つしないが、鳥を飼っているのかもしれない。
動物が好きなのであれば、魔術で鳥を生み出して見せれば興味を引くだろうか。
あれこれと思案していたものの、さすがに考えることがなくなってきた。幾ら待ってもやって来ない王子に、執事が様子を見に行くと告げて出ていく。その背中を見送りつつ、黒板の反対側にある時計へと目をやる。ここにきて二十分。やろうとしていた内容の幾つかはできなさそうだと考える。
暫くしてから、ようやく中庭から賑やかな少年たちの声が聞こえてきた。友人と遊んでいたらしいと解釈する。思いの外盛り上がって時間を忘れてしまったのかもしれない。
エドワード王子は今年で六歳だったはずだ。王子にしては躾がなっていないが、年相応といえばそうなのだろう。
ブライトは窓に目をやった。王子が走ってきたのが視界の端に映ったからだ。
王子は走りながらも、ブライトのいる部屋を真っ直ぐ見つめている。ブライトのことが見えているかもしれないと感じ立ち上がったところで、王子が後ろを振り返った。王子は大きく手を振る仕草をしている。その奥に、見覚えのある茶髪が覗いた。
あっと声を上げかけた。王子の遊び相手と思われる子供が、手を振るかわりに、王子に頭を下げて礼をしている。その子供に予感があった。
目を離せないでいると、子供は顔を上げた。色白の肌に赤い目をしている。ブライトのよく知る特徴である。
体中に衝撃が走る。
近づいてきたから、更によく確認できた。確かにあの晩ベッドにいた子供と全く同じ顔だ。
窓から手を伸ばしたら届く範囲になって、ブライトは諦めた。
もう見間違いようもなかった。殺したと思ったはずの弟が、そこに立っていた。
ちらりと子供の視線がブライトの方へと向いた気がした。しかし、子供はブライトのいる部屋に入ろうとはしなかった。何事もなかったように王子を見送って、もう一度王子と後からやってきた執事に一礼してからくるりと向きを変えた。
子供の帰っていく背中に手を伸ばしかけた。部屋の扉が開く音に、はっとなって僅かに上がった手を下ろす。
「どうやら待たせたようだ」
王子がひょっこりと顔を出す。
「王子。そのような態度は如何なものかと」
執事がその背中に向けて小言を言うものの、王子はしかし気にした素振りを見せない。それよりも、ブライトは先程見えた弟の存在に意識が向いていた。
「あの、エドワード王子。先程まで遊ばれていたのは」
思わず零してから、
「気になるか? 余の友人が」
と返り、はっとした。王子の顔を改めて見つめる。流れるような金髪はアンジェラ妃にそっくりで、弟とは打って変わった健康的な肌の色や体型には力強さがある。そして、どこか挑戦的な赤茶色の瞳が、はっきりと告げていた。
――――ブライトの反応を見て、楽しんでいると。
「いえ、失礼しました。時間も押していますし、魔術の勉強を始めましょうか」
間違いなく、先程の子供はワイズだと確信した。王子が、わざと遅れてきて故意にワイズを見せたとしか思えなかった。子供のいたずらにしては、あまりにも悪質だ。
動揺する自分の心を自制する。生きていたという喜びと何故という疑問と、深い絶望とが綯い交ぜになって、教師どころではなくなってしまいそうだったからだ。
それに、ブライトは弟を見てしまった。この情報は母にも伝わる。アイリオール家のお家騒動は終わらない。むしろ、これから加速していくのだ。
「前までの家庭教師は、魔術書を全て暗記しろと言った。それから理解を深めるのだと。そなたは、魔術書を書かれた歴史から説明する。この違いはなぜだ」
遅刻してきた王子だが、態度は非常に良くブライトが教えたことをすぐに理解した。二十分の待ち時間などあっという間に埋めてくる。そして、真剣に問いかけられた。
「前までの方の考えは存じませんが、あたしは、相手を知るには、相手と同じ境遇を想像することから始めるべきだと考えているからです」
「なるほど、魔術書も同じだと」
「本であってもその裏には書いた人物がおります。歴史を辿れない魔術書ならばいざ知らず、王子がお読みしているのは有名な魔術書故、知っておかない手はございません」
ブライトの説明は、王子を感心させたようだ。
「……さすが、教え方が上手いな。これまでの者とは全く違う」
「恐れ入ります」
王子はそうブライトを褒めるが、これはブライトではなく王子の頭が良すぎるのだと感じる。人に物事を教えたことのないブライトであったが、やれてしまうのはそのためだ。
「そなたは、何故そこまで魔術を覚えられる?」
中々にされたことのない質問で、答えるのに少し悩んでしまった。
「そうですね、『好きこそものの上手なれ』というものでしょうか」
「ふむ。そういうものか。それにしても、そなたは何故自身が当主の座をもらえないまま、家の没収もされないか考えたことはあるか?」
それは、王妃にも聞かれた内容だ。
「他でもない、国王の意志による。余は優秀な人材は活かしてこそだと考える。だが、世は世だ。そなたの使い道は余が決めよう」
弟が当主を継ぐとしても、成人してからだ。ブライトたちはついこないだまで未成年で、アイリオール家の座は空いていた。代理としてブライトが仕事を勤めていたが、例外なのは間違いない。
それを認めていたのは国王だと思っていた。けれど、王子の言葉を聞いて、考え改めた。
――――この王子、六歳にしては相当の食わせ者だ。
確かに、例外がないことであった為、ブライトに当主の座を与えず引き伸ばしを行ったのは国王だろう。『魔術師』たちの意見を聞いてから判断しようとしていたに違いない。
けれど、王子はブライトに対して使い道と告げた。そして王子はブライトを家庭教師に希望したという。そうなると、更なる引き伸ばしを提言したのは、王子の可能性がある。ブライトを優秀な人材と捉えたうえで、気づいているのだ。王家の意志一つで、ブライトなどどうにでもなるということを。具体的には、当主の座につかせて父のように忠誠を誓わせることも、家庭教師のブライトから魔術の知識を得た後で、全てを奪うこともできる。下手をすると、そうして捨てた先の使い道も含めての発言かもしれない。特別区域について、王家は容認している。
家庭教師一つで浮かれていたと戒める。弟と友人として接しているあたりに、ブライトの立場の悪さが窺える気がした。
ごくりと息を呑む。王家もまた『魔術師』であることを、ゆめゆめ忘れてならないのだと意識したのだ。




