その807 『ワカッテイタコ卜』
「あたしも誰かを傷つけない生き方がしたかったな」
誰かを助けるために体を張れる生き方はきっと同じだ。けれどブライトの生き方では不都合な人間は消していく。ヒューイのような、通り過ぎたというだけで他者であるブライトまでも助けるような、優しい生き方はできない。
胸が苦しくなり、目を閉じた。
これからどうするのかを、改めて考える。
帰るしかない。それが、すぐに浮かんだ結論だ。本当のことをいうと、まだ帰りたくなかった。決断を引き伸ばしたいという思いもあった。しかしこうして取り残された今、行く宛がないブライトには戻る以外のことはできない。幾ら、気は重くてもだ。
とはいえ、今外に出ると誰かに見つかることだろう。そう判断して、まずは夜になってから帰宅することにする。
ブライトは一人、時間を持て余し、何もない天井をただ見上げる。そうしてじっとしていると、寒さを感じた。上着を返したうえボロボロの服のままだからだ。ノートを開き、魔術を使う。少し暖かくするだけの魔術だ。
それから、夜を待つ間に、頭の中をなるべく整頓することにした。
今、外がどうなっているのか、知るのは怖い。特に、ワイズのことだ。最後まで見届けることはなかったが、ワイズには確実に魔術を掛けた。まず死んでいるだろう。
けれど、ワイズが最後にブライトに触れたとき、ブライトに掛かっていた魔術が解けた。それにより、ブライトは混乱し慌てて逃げ出したのだ。これはきっと、魔術を解除する法陣がどこかに忍ばせてあったのだろう。ワイズはまだ幼いので魔術を使えるとは思えない。引き金がワイズに触れられたことなのが謎だが、ブライトが知らないだけでそうした魔術もあるのかもしれない。
しかし、ワイズが死んだとなればジェミニにはもう大義はない。正しい跡取りはブライトだけなのである。
では、大人しくジェミニが諦めるかといったらそれはない気がした。改めて冷静に考えると、今更ジェミニが退くとは思えないのだ。というのも、もう散々ジェミニは裏でブライトたちを敵に回し、多くの貴族たちと根回しを行っている。そこにつぎ込んだのは資金や労力だけではないはずだ。ブライトが断ってきた命も含まれている。後に退ける状態ではない。
そうなると、ワイズの死を隠そうとするはずだ。替え玉を使ってくる可能性もある。きっと、ジェミニが諦めない限りは、アイリオール家の騒動は続く。それならば、ブライトは執拗に弟に会って話がしたいと告げ、ワイズの偽者が現れたときには証拠を突きつけるだけである。
次にブライトのことだ。魔術が解かれたことは、報告のタイミングで母に伝わる。そうなると、母はどう出るだろう。ワイズは死んでいたとしても、ジェミニが諦めない以上結局何も変わらない。そう判断して再び魔術をかけようとするだろう。そうしたら、ブライトはまた誰かを殺さないといけなくなる。母の気持ちが変わることも考えたが、それはない気がした。
目を閉じて首を横に振る。我儘でも人はもう手に掛けたくない。耐えられる自信がない。
やはりこのまま逃げるということも考える。
けれど、それではジェミニはワイズの死を、母はブライトの不在を隠すことになる。そのうちに露呈して、アイリオール家の騒動は終わるのだろうか。そのとき、母はどうなるのだろう。
考えた途端、母のことだけを考えていた思考が、シミのように僅かに残っているのを感じる。母が心配だ。戻らなくては、助けられない。それに元々、魔術がなくてもブライトは母の力になりたいと思っていたはずだ。
だから、誰も殺さなくてすみ母の力になることをしなくてはいけない。それには、何をするのが正解なのだろう。
頭の整理はできても、問題は解決しそうにない。その先の結論がでないままでいる。時間は待ってはくれないと分かるからこそ、決めきれない。もういっそのこと、考えることをやめたかった。弟を殺すような自分の心なんて死ねばよいのだと本気で思った。そうすれば、きっとブライトはもう苦しまなくてすむ。
「結局、自分のことばっかり、か」
ミドを探していたヒューイのことを思い浮かべる。
「あたし、どうしたいんだっけ」
やりたいことはある。それを実行するために、頑張ってきてはいる。
けれど、いつの間にか見失っていたのも事実だ。
「あたしは、お母様を助けたい」
改めて口にして、立ち上がる。そろそろ屋敷に戻るには良い時間だ。不在が長いのもそれはそれで怪しいので、おどおどはしていられない。
最後にぽつりと呟いた。母に聞こえるように、わざとだ。
「あたしの心よりもずっと大切な、やりたいこと。――――を、…………」
いよいよ梯子を登った。蓋を持ち上げて外を見れば、人気のない路地に続いている。ゆっくりと音を立てないように外に出て、姿を隠す魔術を使う。そうして見回すと、意外と自分の屋敷に近いことがわかった。すぐに向かう。
屋敷につくと、真っ先に自分の部屋に入り込んだ。部屋は静かで、いつも通り寂しい雰囲気がした。掃除にも来なかったらしいと思いながら、廊下へと出る。かつんかつんと、廊下を進んで母の部屋の扉まで辿り着いた。そこでノックしようとしたとき、確かに向こう側から話し声が聞こえた。女の声だ。けれど、母ではない。母が急に口を聞けるようになったわけではないのだ。
何ごとかと思い、思いっきり扉を開けた。その途端、音が途切れた。そこにいるはずの女はどこにもいなかった。
「お母様?」
母はベッドから半分身体を出していた。久しぶりに、天幕の奥に隠れていないその姿を見た。顔はやつれ、赤い目はじっとブライトを捉えている。
「遅くなり、すみません。ただいま、帰りました」
ブライトは慌てて挨拶をした。
母も何事もなかったかのようにメモを綴ってみせる。
「報告を」
恐ろしいほどにいつも通りだ。そのことに震えながらも、仔細に起きたことを報告する。それが終わると、手招きをされた。記憶を覗きたいということだろう。わかっていたから、法陣を描いた。自分で自分の行動に制限を与える。
ところが、母はそこで少しだけいつもと違う動きをした。長々と文字を綴ったのだ。そしてそれを動けないブライトの前に差し出す。
「彼女の言うとおりでした。あなたは、私を一番に考えてくれなかった」
何を言われているのか、分からなかった。何か掛け違えたような不安に襲われる。
「ごめんなさい、あたし」
すかさず謝った。
「魔術を解かれたことなら、それがなくてもあたしはお母様のこと……」
「言い訳は不要」
冷たい殴り書きが差し出された。
「記憶を見せなさい」
いつもの文章が続けて渡される。冷たい手に触れられて、びくりとした。ヒューイとの記憶が頭の片隅に浮かぶ。全て報告したのだ。見られても問題ない記憶だったはずだと言い聞かせる。
けれど、意識が霞むのも苦しくなるのも避けられなかった。心の何処かで生まれた抵抗が、母を失望させた。それが恐怖になって、ブライトを慌てさせた。そのせいで何度も何度も意識を失って、そうしてようやく長い時間が終わった。うつらうつらする世界で、扇が投げ込まれる。メモも一緒に置かれていた。
「あなたにもう一度証明してみせてもらいたいのです。折角ならより強い法陣を」
痛みを自分に与えながら、揺れる視界の中でブライトは心を差し出した。
本当は何か手があったのかもしれない。ハレンが言うように、ブライトが知らないだけで世界は広い。誰も殺さなくてすみ、母の力になれる方法もあったのだろう。
けれど、ブライトには分からなかった。
だから、折角解放された心の痛みを再び打ち込む。誰かに言われなくとも、告げる言葉は決まっている。
「お母様のこと、一番に考えます」
ヒューイの言葉がなかったら、あのときブライトは逃げただろうか。問いかけるが、それはない気がした。心が空っぽになってしまったら、ころころと転がってくる小石を拾うしかない。そうして、転がした小石を落としてしまったら、もうブライトは再び孤独になるしかない。空っぽな世界にあったシミにしがみつくしかないのだ。だから、ブライトは何回魔術が消えようが、戻る選択をしてしまうだろう。ましてや、自分の心などもうどうでも良いのだから。
「私の心より」
そうして自ら心に杭を打ち込んだ。




