その803 『タスケテナンテ言エナイ』
あまりに急に巻き付かれたせいで手からノートが滑り落ちた。あっと声を上げかけた瞬間、腰回りをするりと何かくねくねとしたものが巻き付いた。途端に身体が地面から離れる。
痛みが走り、思わず悲鳴を上げる。みしみしと締め上げられると同時に針に突き刺される痛みを感じたのだ。独特の生臭さとともに、刺されたそこから何かが入り込んでいくのが分かりぎょっとした。
けれど、逃げられない。所詮子供の弱い力では、びくりともしない。もがくと言える程のことさえできずにいるうちに、痛みを感じなくなった。声も出せなくなり、身体に力が入らない。身体の感覚が麻痺していっているのだ。
霞む視界の中で、何が起こったのか整理しようとした。水路に何かがいたことは間違いない。それが、ブライトを追った誰かの仕業か、元々そこに住み着いていたのかは分からない。ただ、これはどうも独特の見てくれをしているらしい。体に巻き付く触手に覚えがある。クラーケンだ。触手で獲物を捉え、あっという間に捕食する。溟海の悪魔の名前を持つ海獣である。
「あ、ぅ……」
首元まで締め上げられて、意識が霞む。思わず開いた口の中にまで入り込んできた触手は、恐らく悲鳴を塞ぐためのものだろう。気持ち悪くなるほどの生臭い匂いと感触に、意識が散り散りになる。最悪な自分に相応しい、素晴らしく惨めな死に様だと思った。
カランカラン……
何か軽いものが転がる音が耳に届いた。次の瞬間、背中から衝撃が来る。頭の中が真っ白になり、意識が一瞬飛んだ。
少しして倒れているのだと認識する。同時にいつの間にか息ができることに気がついた。口の中の触手が抜けるどころか、腰に巻き付いていた触手さえも緩んでいる。そして自分の体が床に叩きつけられていた。ぼやけた視界の中で、近くに開かれたノートがあることが確認できる。そしてそのノートを突き刺すように、見たことのないナイフが刺さっている。ちょうど法陣の最後の一閃を描くその場所に刺さったナイフに、呼ばれた気がした。
痺れる体のことなど頭になかった。無我夢中でナイフを手にとって、そのままノートを引き裂く。最後の一閃が入りきり、法陣が光った。
「炎よ」
魔術を声にして唱えたのは、久しぶりのことだ。それは過たず再び触手を伸ばそうとした魔物に向かって飛んでいく。振り返ったブライトは燃え上がる真っ暗なクラーケンもどきの姿を見た。悪魔にふさわしい炎と黒い肌が、灰となって消えていく。そして自覚した。
生きることを選択してしまったと。
誰かが走ってくる音には気がついていたが、絶望に包まれたブライトの意識はそこで途切れた。
バチバチと爆ぜる音が続いている。ぽかぽかと暖かい熱に、ブライトの意識は引き戻される。
「おっ、起きたか」
身体を起こすと、そこはまだ薄暗い地下水路だった。そして、見慣れない白髪の少年がいる。彼がナイフを投げて助けてくれたのだとはすぐにわかった。余計なことをしてくれたと思うべきか、お礼をすべきかよく分からなくなった。ただ、一つ言えるのは、少年にとっては見過ごせない事態だったのだろうということだけだ。
「あたし……」
頭は殴りたくなるほどにはっきりしていたが、まだ理解していないという顔で呟く。そうすれば、情報を集められることが分かっていた。
「魔物に襲われてたから、助けたんだ。にしてもスゲェな。俺はナイフを投げるので精々だったのに、あいつを炎で焼きやがった。炎の魔法石だろ? どこで盗んだんだ?」
どうも、魔術とは思われていないらしい。よくよく見てみれば、少年は見慣れない格好をしていた。どこからどうみてもぼろぼろの布を、何枚も羽織っている。どれも薄着で、地下水路では寒いだろうと想像できた。そうなると、少年はまず貴族ではない。念のため、敬語はやめておこうと心に決める。庶民の子供は私語しか使わないということは、過去聞いたことがあったからだ。
「あ、服」
それで気がついた。いつの間にかブライトには上着が被せられている。それも綺麗な上着とは言いづらいが、少年のものだとはすぐに悟った。
「いや、さすがにずたずただったからさ」
目の前の少年は、照れくさそうに顔を背けた。
「ありがと」
お礼を言いながら、そうか自分は結局お礼を言うのかと自問した。
「いいって。それより、べたべただろ? そこの水で拭いておけよ」
確かに生臭くてべとべとだ。ブライトは恐る恐る水を覗いた。
「あの魔物はいねぇって」
魔物がいたらこんな悠長に会話などできない。少年の言葉に納得してから、自分のぼろぼろになっていた服の切れ端を千切って水の中に浸した。水路の水は正直に言うと淀んで汚く見えたが、魔物のべとべとよりは幾らかましだ。そう言い聞かせてまずは上着を脱ごうとした。
「あの」
そこで視線を感じて、ブライトは振り返った。
「拭くから見ないで欲しいんだけど」
「み、見ねぇって!」
慌てたように視線をそらし後ろを向いた少年を確認してから、上着を脱ぐ。ところどころ破れた服が露わになる。服を捲り、拭き取り始める。よく見ると、腹部に針のような穴が幾つか空いている。血が止まっているのが自分でも不思議で、眺めていたら不意に目眩がした。
転びかけて辛うじて身体を支える。
「なんか、すげぇ音がしたけど大丈夫か」
「うん、平気だよ」
とりあえずと服を整えながら、自身がどこかおかしいことを意識する。まず、むかむかと胃に気持ち悪さを感じた。少しずつ指先を動かしていたら、徐々に痺れを感じ出した。そうして、そもそも指の感覚がほぼなかったことを意識した。魔物の毒のせいだとは分かった。首もやられたので、このままだと不味いかもしれない。考えてみれば、少し呼吸がしにくい。
何もしなければきっと自分は死ぬだろうと分かった。それは一つの誘惑だった。




