その802 『イヤダ』
徐々に相手の体力を奪う魔術。
そう魔術書に書かれていたものの、実際のところは『徐々に』などという表現からは大きくずれていた。あまりに強い魔術故に、それはあっという間に人の体力を奪い切り、命を剥奪する。具体的には、すぐに立てなくなり血を吐いて咳き込み、呼吸困難に陥り、死に絶える。
だから、子供であるワイズに掛けたのであれば容赦なく命を刈り取るはずであった。
実際、目の前のワイズの顔は真っ青だった。それは、身体の弱いミリアを連想させる顔だ。ゴホゴホと咳をすると、口から血が一筋こぼれ落ちた。ふらついたのか、手をベッドに押し当てて身体を支えている。
最悪の魔術の引き金を引いたのだ。数秒、眺めていたら終わるはずだ。弟をその手にかけ、そしてアイリオール家の跡取り問題に片をつける。それで、全てから解放されるはずだった。
予定から外れたのは、ワイズが血を吐きながらもブライトの方へと乗り出してきたからだ。そうして、一歩の距離を埋めたワイズの手がそっと、差し伸ばされる。意識が朦朧としだしたのか虚ろな目で、しかしはっきりと告げられた。
「どこか痛いのですか?」
何を言われているのか分からなかった。痛みを感じるとしたらそれはワイズであって、ブライトではないはずだ。
不意を打たれ動揺した心は、ワイズがブライトの頬に触れるのを簡単に許した。いつの間にか溢れていた涙の一滴をワイズの指が拭き取る。
その瞬間、ブライトに打ちつけられた杭が抜けた感触がした。突然頭の中が真っ白になり、心の均衡が崩れていく音を聞く。指が震えて、呼吸ができない。目の前の弟の顔が揺れた。涙が抑えられなくなり、弟の輪郭が歪んで人でなくなった。
そして、遅れて意識した。
――――あたしは今、何をしているのだ。
月の光に照らされる目の前の赤黒い色が、ブライトのしでかしたことを責めた。杭がなくなり穴だけが空いた心に、罪の重さという新たな杭が突き刺さる。その痛みに、心からドクドクと血が流れていった。
「ぃいや、イヤダ……、あ、アタシ、ハ……」
知らず呻くように漏れた悲鳴は、殆ど意味を為していない。それに気づくこともできなかった。呻きながら、ただ理性が自分自身に問い詰める声は聞く。
一体いつから人を殺すことに躊躇いがなくなったのだと。
「ごめんな、さい」
謝罪の言葉だけは辛うじて出た。けれど、それはもう遅いことを知っていた。一度発動した魔術は止められない。
ブライトはあろうことか肉親をこの手に掛けたのだ。
「イヤダ……」
幾ら心のなかで喚こうとも、今更現実からは逃げられない。散り散りになった感情をかき集めようとして失敗する。そうして、苦しくなったブライトは、全てを捨てて逃げ出した。ワイズの姿を確認しようともしなかった。
きっと、魔術さえもろくに掛けなかった。だから、誰にも見つからなかったのは運が良かったのだろう。廊下を疾走し窓から飛び出て門にしがみつき、崩れ落ちるように床に尻餅をついた。そうしてから初めて、周りが騒がしいことに気がついた。ワイズの死が広まったのだろう。屋敷が混乱しているようだ。
ここまで来てようやく理性が帰ってきた。戻ろうと魔術を掛けようとしたところで、手がまだ震えていることに気がついた。ノートに線を引こうとして何度も失敗した。
そのとき、足音がした。思ったより早いそれに、魔術を放とうとする心が焦る。落ち着かない指に無理だと判断したブライトは床にある蓋に飛びついた。子供の力でも開いた。すぐに、中へと飛び込む。
初めて入った水路は暗くてカビ臭かった。けれど、躊躇いはなかった。むしろ、奈落の海の底のような暗い世界は今のブライトに相応しい場所だった。蓋の先にあった梯子を下りて地面に下り立つ。それから、今下りたばかりの梯子を見上げるが、閉めた蓋を開けて誰かが入ってくる気配はなかった。
息を殺したブライトは、水路をゆっくりと歩いていく。ひんやりとした冷気がブライトの心に染み込んで、体が震えて仕方がなかった。堪らず足を止めた途端、チューチューという鼠の声がした。試し打ちのことを思い出して、吐き気が込み上げる。鼠の声を耳から追い出したくなり、再び歩いた。ようやく何も聞こえない場所にたどり着き腰を下ろしたときには、身体はろくに言うことも聞かないほどに凍えきっていた。座り込んでから、顔中が涙でぐちゃぐちゃなのを意識する。
「一体、何が起きたの」
呟いた言葉は、掠れて殆ど声になっていなかった。至らない頭で、状況を整理しようとする。
間違いなく、ワイズに触られてから、ブライトは急におかしくなってしまった。何らかの魔術を掛けられたのかもしれないと、まずは疑った。ブライトがそうしたように、ワイズもまた自分を殺そうとするブライトに何らかの仕返しをしたのだ。それが良心の呵責を促すような魔術だったに違いない。だからブライトは耐えきれなくなり、逃げてしまった。
きっと、ワイズは目の前で自分を殺そうとする人物が姉だということに気がついたのだろう。一矢報いるため、その手でブライトに魔術を掛けたのだ。
「どこか痛いのですか?」
蘇った言葉が、淀む思考を堰き止めた。あのときのワイズの顔を覚えている。あれば間違いなく、誰かを心配する顔だった。自分が目の前の姉のせいで死にかけているのに、ただ助けようと考えていたのだ。嫌でも悟った。弟は、心優しい人間なのだろう。
「……やだ、いやだよ」
その弟にブライトは魔術を掛けた。間違いなく、もう生きてはいないだろう。
しでかした事の大きさを意識する。いつの間にか鈍っていた良心の呵責は、自分のものであって魔術によるものではないと分かった。故に理解した。
突然の呼吸のしづらさも指の震えも、罪の重さを意識したことによるものだ。涙は今まで抑えつけていた感情の反動によるものだろう。心の均衡は母の魔術によりブライトの心が歪んでいたことで取れていたものだ。
きっと、ワイズが見た痛みとは、ブライトの心の傷のことだ。魔術という名の杭が、心に打たれているのを見て、ワイズはそれを溶かしてみせたのだ。ブライトに掛けられた魔術が、消されてしまった。だから、ブライトは現実を正しく見つめてしまった。歪んだ心で見れていた、人の生き死にを簡単に操作する世界が、崩れ去った。
戻れないと感じた。
今、アイリオール家の屋敷に帰ったら、ブライトはきっとまた母に魔術を掛けられる。ワイズがいなくなっても、ジェミニは生きている。きっとブライトはまた人を殺すことを要求される。その恐ろしさに、今の心では耐えられる自信がなかった。
それになによりも、心優しい弟を手に掛けたという事実に耐えられなかった。
「死にたい」
呟いた言葉が、水路に僅かに木霊した。
ブライトの言葉に答えるように、暗い水が小さな音を立てた。
何と思う間もなかった。暗がりからするりと何かが伸びた。
あっと思ったときには、それがブライトの小さな手に巻き付いた。




