その799 『久シブリノ』
「シャンも、ですか」
その夜、メモに書かれた名前を見て、ブライトは聞き返す。
「シャンはお母様がお気に召していたと聞いておりました。本当によろしいのですか」
少しして母からのメモが渡される。そこには、
「彼女の行いを思えば、当然です」
とあった。
「確かに、例外なく報いは受けねばなりません」
母の言葉に同意をすると、ブライトは部屋を出た。そうして、自室に駆け込んだところで、ほっと息をつく。
そう、安堵していた。
自分にとって、大切な人でないことに。シャンもまた、同じ屋敷にいた仲間なのだが、母付きのメイドということでブライトとはあまり縁がなかった。だから、躊躇いはいらないのだと考える自身がいた。
「あたしの魂は、真の海にはいけないな」
シャンが聞いたら間違いなくブライトのことを許せないと思うことだろう。そう想像できてしまうからこそ、零れた呟きだ。奈落の海に落ちた魂は、光の導きにより真の海を目指すことができる。しかし、行いの悪い者には、その導きは見えないのだという話をかつて書物で読んだことがあった。
自覚はしていた。ブライトの心はいつの間にか、人を殺めることに鈍くなっている。ネネを相手に躊躇いなく魔術を放ててしまったし、マリーナに殺害を唆すこともできてしまった。ハレンのときにあったはずの動揺が、消えている。
けれど、それを嘆いたところでやることは変わらない。楽になったと思えばよいのか、人であることを止めた自身を嫌悪すればよいのかは、判断がつかなかった。
そうして今日もまた、誰かを殺めるための計画を考える。
「ご無沙汰しております、ブライト様」
「ご無沙汰しています、エルドナ様。本日はお招きいただきありがとうございます」
久しぶりに聞いたソプラノの声は、優しくて可愛らしい記憶のなかのエルドナと相違なかった。
今日のお茶会は、ジュリウス家の屋敷で行う。参加者はブライトとエルドナだけと聞いている。少人数のほうが気楽だからと招待状に書いてあった。ネネの葬儀からあまり経っていないが、日程は変えないで行くことにした。ブライトは予定が詰まっていたし、エルドナはどうもブライトに息抜きをしてほしいと考えているようである。
ひとまずドレスの裾を持ち上げて挨拶をしたブライトは、早速エルドナに声を掛けられる。
「ここのところ、全然落ち着かなくて大変だったでしょう? 今日はゆっくりしていってください。私、精一杯おもてなしさせていただきます」
相変わらず年下のブライトにも丁寧な対応である。
「ありがとうございます」
「では、客間にご案内します」
張り切った様子のエルドナについていく。ブライトより背が低いからか歩幅が狭い。間違えて彼女のクリーム色のドレスの裾を踏んでしまいそうで怖かった。
気をつけながらも、ジュリウス家の屋敷の様子を観察して歩く。いつの間にか、他家の屋敷についたら間取りだけは、しっかり頭に入れる癖がついている。
そうした視点から考えると、とてもこじんまりとした屋敷だった。ブライトの屋敷の半分ほどの大きさで、一階しかないので部屋数が明らかに少ない。これならばシェラ家やビヨンド家のほうが大きいと感じるほどだ。
とはいえ、貧相な感じはしない。最低限のものを上質な素材で揃えている。例えば、屋敷の床は大理石が使われていて歩くだけで小気味良い音が響いた。天井の照明は、宝石を一部埋め込んだシャンデリアになっていて、複雑な模様の影がくっきりと床に現れている。
「こちらです」
案内された客間も小さめだったが、白色を基調とした明るい部屋になっていた。薄紅色の薔薇を中心に淡い色の花がたくさん飾られているためか、優しく落ち着いた香りがした。
「良い雰囲気のお部屋ですね」
「ありがとうございます」
頬を赤らめて喜ぶエルドナを見ていると、純粋で眩しく映る。
「では、お座りください。粗茶ですが、ご用意させていただきます」
執事たちの準備の合間に、ブライトは聞いてみた。
「エルドナ様は、母のこと聞かないのですね」
聞かれる前に先に話す。それが、ここのところのお茶会で学んだ必勝法だ。
「えっ、お聞きしても良かったのですか」
「はい」
「えっと、でも大丈夫です。ここのところいろいろな方がお亡くなりになっていますし、まだお辛いとは察しています」
ぺこぺこと頭を下げられてしまった。今まで話す分には断られることはなかったのだが、エルドナに限っては他の令嬢と反応が違う。
「エルドナ様も、マリーナ様やササラ様とはご交流があられましたか」
聞くと、首を横に振られた。
「交流は実はそんなになかったです。私に女友達は、ベルガモット様やブライト様しかいないので……」
ブライトは交流関係を広く持つ必要があるが、そうでない人間からしてみれば、狭いものなのかもしれない。実際にエルドナはお茶会慣れしていないのか、とても自然体だ。
「だから私、お二人のこともっと応援します!」
両手で拳を作って息巻くエルドナは、やはり年上だというのに可愛らしく映った。
久しぶりに心穏やかに過ごせるお茶会だった。ラクダ車に揺られながら、どこかゆったりした気分で屋敷までの帰路を行く。そうして辿り着いた屋敷では、真っ青になったレナードが待っていた。彼のそうした表情を見るのは、はじめてだ。
「ブライト様! 急ぎ出立のご準備を」
「どうしたの、レナード」
敬語を使えなどと、お小言を言う暇もなさそうで、レナードは続けた。
「王家よりブライト様へ招集が掛かっています!」




