その795 『サヨウナラ、友人ニナリ得タ人』
向かい合った二人の間には、段差がある。ブライトは二階へと続く段上から、ネネは割れた窓ガラスのある踊り場から、それぞれ見下ろし見上げている。
こうして、ネネに姿を見せてしまった以上、応援を呼ばれるまでに決着をつけないといけなかった。おまけに、ネネの後ろからはひんやりとした風が流れていく。フェイントのためとはいえ、脱出路を与えてしまったのだ。
「まだ成人の儀も終えていないのに私語とはお行儀の悪い……、なんて言える雰囲気でもないですね」
ネネは言葉を発しながら視線を彷徨わせている。法陣がないか、探っているのだ。それは好機だった。離脱するという選択肢を取られたら、ブライトに取れる手段は限られる。
「招かれていない屋敷に勝手にお邪魔した時点で、行儀も何もね」
答えながら、ブライトはそっと手に持ったノートを弄る。次開くページは決まっていた。
「それにしても、光線を放つ魔術なんて怖いもの知っているね。意外と好戦的なんだ」
「意外でしょうか? 私の性格は大体知っての通りだと存じますが」
「確かに。そう言われたら意外でもない、か」
ブライトは同意する。ネネは意外と好戦的だ。そうでなかったら、アイリオール家のブライトを相手に堂々と噛みつくことはしないし、裏で悪評を流すこともしないだろう。
「やっぱり急にあたしの悪い噂が流れたのはネネのせいだよね?」
確認を取ると、素直に頷かれた。
「私なりにタタラーナ様の話を受けて動いた結果です。人を使うと言われて、これも手なのだと考えついたのです。しかしまさか、そのためだけにファンダール家の屋敷に忍び込むことはないでしょう?」
暗に、狙いは何か聞かれている。その会話の間にも、ネネは見つけた法陣に指を当てていた。発動するために必要な一手を恐らくは描き込んだ。
「ネネはあたしが行動する理由にアタリをつけているのかな」
「ブライト様が行動されるのは、お家の為でしょう。そういう点では私とは変わりません。ただ……」
ネネの手元にある法陣を見て、光線を放つつもりだと確信する。段上では足場が悪い。この距離で打たれたらまず逃げられない。
「ただ?」
ブライトが問い返すと、ネネはキリッと見つめ返した。
「私はブライト様とは違う、他ならぬ自分の意志で戦います!」
ネネの指先の法陣が光に満ちる。
――――魔術が、発動されたのだ。
「え?」
ネネの驚きの表情が、目の前の出来事に理解を受け付けないと言っている。
閃光は、発せられなかったのである。魔術にありがちな、不発ではない。法陣は確かに正しく描き込まれていて、光も放っていた。ただ、結果が異なるだけだ。
「心外だなって」
ブライトは一段階段を下りた。そうして、また一段。少しずつ、下りていく。
ネネの焦りの視線がブライトを通り過ぎる。次の法陣を探しているのではないはずだ。ネネ自身は今、それどころではない。
「それだとまるで、あたしが自分の意志で戦っていないみたいだよ」
「な、んで……」
ネネは苦しそうに喉に手を当てている。視界が既に覚束ないのだろう。立てないようで、足から崩れ落ちた。
「なんでって? あぁ、魔術のことなら、簡単だよ。魔術書を隠すときも、違う本に形を変えることとかあるでしょ? それと同じ」
ネネが触ったのはネネ自身が描いた法陣ではないのだ。それはブライトが発動させた上で姿を変えていた、息を塞ぐ魔術なのである。間違えて法陣をかき消されないように閃光を放つ魔術と全く同じ位置に最後の一閃を入れるという一工夫がされている。
つまり、ブライトを攻撃しようと偽の法陣に触れたから、ブライトの魔術に掛かったのだ。急いでたくさんの法陣を描いていたからこそ、踊り場の偽の法陣には気づけなかったのだろう。更には、発動のタイミングで同じ魔術を発動させ、さぞ魔術を使ったかのように光らせるという演出までしたおまけ付きである。ばれないよう、ブライトなりに徹底的に対策したのだ。当然、正しい法陣を引き当てないように他の法陣を周囲の壁と同じ色にもしていた。
しかしもしネネが戦うのをやめてすぐさま階段を下りて周囲の人間に助けを求めたならば、ブライトは階段の壁に描かれた法陣を発動させて、閃光を放つ魔術で一か八かネネを打ち狙うしかなかった。
ネネが窓から飛び降りても同じことだ。どちらも確実性がなく、顔が割れているブライトは下手すると終わっていた。
けれど、ネネはあくまで自分の力で戦うのを止めなかった。だから、仕掛けておいた罠が作動した。
好戦的であるとは、知っていた。ネネはいつでも積極的だったからだ。そうでなければ、マリーナやブライトと一緒とはいえグレンを殺した犯人を探すことを良しとするだろうか。
「おと、う、とたち、は……」
家のためと言いながら、弟たちのことを案じるネネを見下ろして、告げた。
「安心してよ。あたしの目的はネネだけだから」
ふっと、目の前のネネから力が抜けた。ブライトの言葉に安心したかどうかは分からない。ただ、ぼそぼそと口を動かして最後の言葉を告げると、苦しそうにその場に倒れた。
生気のない瞳はブライトのことをもう見つめておらず、息絶えたのだと、判断した。
だからこそ、やりきれなかった。
「助けてあげられなくて、ごめんなさい」
そう、ネネはブライトに告げたのだ。
「意味が分からないよ」
弟のことかと思ったが、文脈が合わない。一体誰のことを指して言ったのか、真剣に分からなかった。
正確には、考えている暇もなかった。
「一体何事ですか!」
「今、窓ガラスの割れる音がしなかったか」
口々に聞こえてくる会話は屋敷にいる人々のものだ。おちおち感傷に浸っている場合はない。ブライトは飛行石を取り出すと、窓へと向かって飛んだ。同時に用意しておいたノートから明かりが放たれる。魔術による日の光を受けて、飛行石が力を開放する。風に乗って外へと逃げ出した。




