その781 『恐ロシイセカイ』
魔術のことだけを考えていれば良かった頃は、もう返ってこない。目を閉じれば、ハレンの苦しそうな顔が浮かんでくる。それに耐えながら眠りにつけるほどには、図太くなかった。諦めたブライトは眠りにつくための魔術はないかと意味なく図書室を探し回った。
「ブライト様。今日もまだ図書室に?」
声に振り返るとウィリアムがいる。
「ちょっと眠れなくて」
「昨日も一昨日もそう言われていましたね。では、またハーブティーでもご用意しましょう」
ウィリアムは気を遣ってかブライトに最近ハーブティーを注いでくれる。
「ありがとう」
口に含むと火傷しそうなほど熱いが、却って心地よかった。飲んでいると落ち着いてくる感じがして、もっと図書室に入り浸りたくなる。正直なところ、部屋に一人でいるのが嫌だった。一人だとくよくよ考えてしまう。思い出したくないことも蘇ってくる。だから、誰でもよいから話し相手が欲しかったのだ。
「ブライト様にも、『手』がいると良いのかもしれませんね」
心の内を読んだかのような発言をされた。余程顔に出ていたのだろう。
「あたしも欲しいとは思うけれど、どうしたらよいのか」
誰でも良いのではないかとは、ウィリアムは言わなかった。
「どういう方が良いのですか」
「うーん、あまり多くは望まないや。話し相手になってくれたら」
「それだと私と変わりませんよ。してほしいことをご自身の手と同じように動いて実行する存在なのですから」
そう言われると思いつくことはある。
「じゃあ、代わりにサイン書いてくれるだけでもできたら……」
「筆跡は指紋と同じですので、自分の分身を作る以外ないでしよう」
どうも難しい注文だったらしいと、嘆息する。
「あたしの代わりにお茶会に参加も、無理がある話だよね」
そうなると、意外に頼めることが少ない。いても意味がないのだろうと諦めたときだった。
「分身を作ることはできますよ」
いとも簡単にウィリアムが告げたのだ。
「え、どうやって」
「魔術や異能などの力を駆使すればよいのだと」
ごくんと息を呑む。分身の魔術というよりは変身の魔術だろう。姿を隠せる魔術があるのだ。誰かに似せる魔術もあるかもしれない。その魔術を覚えている『魔術師』の心に魔術を掛けて、ブライトの真似事をしてもらう。そうすれば、ブライトは晴れて執務から開放だ。
「うぅーん、いや、無理だよね」
さすがに、非現実的だ。都合よく魔術を習得している『魔術師』に会えたとしても、心に魔術を掛ければ痕跡が残る。すぐにばれてしまう。
そう考えてから、ある可能性を思いつく。
「異能に否定的だったのって、ひょっとして……」
「ブライト様?」
「あ、ううん。何でもない。ただの考えごと」
空笑いしてから、ブライトは席を立つ。
「飲み物、ありがとう。ようやく眠れそうかも」
「それは良かったです」
ウィリアムはにこやかに笑って送り出してくれる。そこにある臭いを無視して、素直に床に就いた。
次の日は朝から忙しかった。速報が入ったのだ。シェラ家の長男、グレンが病死したらしい。シェラ家の令嬢であるマリーナとはたった数日前にお茶会をしたばかりだ。そのときもし身内が病だったら果たしてお茶会になど参加するだろうか。話題にも出なかったことから、急な病としか考えられない。
「いかがなさいましょうか」
ハリーに問われ、ブライトはすぐに答えた。
「葬儀に参列するので手配を頼んでよいですか」
父の葬儀にグレンは参加している。そのときのグレンの顔をブライトは覚えていない。だからといって無視するのはあり得ないだろうと考える。葬儀にはブライトが出るべきだ。幸い、葬儀は都で行われる。
「かしこまりました」
葬儀の日程が入ったことで、お茶会の予定の変更が必要だ。すぐにブライトは手紙を書いた。マリーナのことも心配だったので、手紙を入れる。
逆にブライトの元には他家から手紙がたくさん届いていた。実は毎日のように届くのはタタラーナの手紙だ。内容は見事なまでに自分の自慢話である。そこに一文程、気になる問いかけを入れてきたり、謎めいた文面に対し意見を述べるよう指示がされていたりする。微妙に即答しにくい内容なのはわざとなのだろう。何日間か無視したことがあるのだが、その後の令嬢たちのお茶会でブライトは人の手紙を無視する人間だとの噂が流れてきた。鬱陶しくなり、とりあえず定型文で褒め称える文を書いて返しているが、そのうち問いかけに対してまともな返信を寄こさないことに対する悪評が広まるのだろう。とはいえ、根も葉もない噂も流してくるのだから、もう無視してもよいかもしれない。
「シャイラス家からもやっぱりお手紙きているんだ」
フィオナからは『先日の誕生日会はどうでしたか』という趣旨の内容の手紙が届いている。ここは礼を述べて、グレンの死について書き、素直に喜べなくなってしまいましたとでも書けばよいだろう。
「この手紙は、ジュリウス家から」
エルドナからの手紙は初めて届いた。内容は、『そろそろ家族のことが落ち着いた頃かと思いますが、いかがお過ごしですか』といったものだ。控えめな文面は、エルドナの性格をよく表している。
「よければ今度お茶しましょう、ぐらいかな」
内容を纏めていると、トントンとノック音がした。
「ブライト様。官吏の方が参られたとのことです」
ハリーは葬儀の手続きをしにいっているので、代わりに出たのはミヤンだ。
「ありがとう。もうそんな時間なんだね」
立ち上がったブライトは伸びをすると、すぐに客間に向かった。客間ではレナードが待っていた。ハリーの代役ということらしい。
シェイレスタの都の民からの相談の時間は、定期的に設けている。執務さえまともにしていなかった頃はその必要性も知らなかった。だが、ブライトの悪評のなかに民の話を聞かないというものがあると知って設けることにしたのだ。
実際、ハリーの話では父もかなりの時間を割いていたらしい。それどころか時々都に直接視察にいっていたようだ。母はそこまでブライトに望んでいないこともあり、何よりもそこまでの時間がないこともあり、視察まですることはさすがに考えていない。
「実はアイリオール家の当主様にご相談がございまして……」
ブライトに頭を下げて説明をする男たちは、貴族の令嬢たちとはまるで違う恰好をしている。大体ここにやってくるのは、昔アイリオール家が都の人間から選別した官吏の人間だ。だが、官吏の判断で数名を同席してよいことになっている。今の官吏である男は、決まって商人の男たちを毎回のように連れてくる。
「最近、子供による万引き被害が相次いでおりまして、その対処のために警備を雇いたいのです」
雇うには金がいる。その資金の相談だろう。
はじめはどのような話を相談されるのか不安だったものだが、殆ど頷くだけでよい相談が多いので対処自体には困っていない。どうにも官吏の男はブライトが子供だと知って予め話を纏めてきているらしい。要は最後の同意さえ取られたら良いようだ。こういうとき、ブライトは自分自身が人形にされているような心地がした。何でもいいから頷いてくれとの官吏の男の視線が、肌に突き刺さるかのようである。
「分かりました。必要資金を出しましょう」
実際、アイリオール家の資産は目減りしているとはいえ、警備費用ぐらいは出す余裕がある。
「ありがとうございます」
官吏は頭を下げると、次の話題について話し始めた。
「それから、今期は魔物の被害が多く、食糧がいつも以上に集まりにくい状況です。いつもの納税では、民たちが餓死してしまうことになりますので、税の引き下げをお願いしたいのですが」
一度レナードに渡され、ブライトに差し出された税率の書いた書類を見ても、正直ブライトにはよくわからなかった。だが右上にサイン欄が用意されていることだけはすぐに見て取れる。
「分かりました」
サインをして返すと、
「ありがとうございます」
と官吏たちはいっせいに頭を下げる。その顔は明らかにほっとしている。
薄気味悪い。それが第一印象だ。正直、ブライトは自分がやっていることが正しいのかよくわからないでいる。
「他に困りごとはありますか」
「はい、実は……」
今回もやはり話はすんなりすんだ。一通り承諾したブライトは、
「あたしからも良いでしょうか」
と切り出す。
「はい、なんでございましょう」
「まず先日いただいたお菓子の企画書ですが、令嬢たちに振舞って意見を聞いてみました。甘みが足りないとの意見をもらいまして、シロップをかけたところかなり美味だとのことです」
商人たちは顔を上げると、互いを見て、ぱっと顔を輝かせた。狙った反応だったらしい。
「なるほど。ありがとうございます。是非参考にさせていただきます」
官吏の男は、大変嬉しいことだと頭を何度も下げる。お礼を言われて悪い気はしないものの、ここまで大袈裟に反応されると居心地が悪い。
「それと、人を探しています」
「人ですか」
予想外の質問だったらしく、官吏の男は不思議そうな顔をしている。
「先日、あたしの家庭教師をしていた人間が亡くなったのです。彼女の家族は都にいると聞いていまして、探していただくことはできますか?」
ハレンのことだ。必要な情報を全て官吏に伝える。
「承知しました。探させましょう」
男は頷いてから大袈裟に手を合わせた。
「そうでした。困りごとではないのですが、実はこの者からブライト様にお似合いの香水を提案させていただきたく」
ブライトの脳裏に、香水好きのミミルの顔が浮かんだ。香水は勧められたが、自分でも何か用意しなくては次からの話題に困る。
「詳しくお聞かせください」
話題は多かったもののすんなりと決まったこともあり、予定されていた時間よりずっと早く相談事が終わる。そのおかげで早めの昼食が取れ、午後からは残りの執務に手を入れられた。
夜になり、早めの湯浴みをすませるとブライトはいつも通りに母の部屋へと向かう。そうして、いつもと同じように報告をし、記憶を覗かれて、次の指示を仰ぐ。
ひらりと落ちたメモを拾うと、短い一文が書いてあった。
「次のターゲットは、ビヨンド家の長男です」




