その779 『取返シノツカナイコト』
「奥様は、このような状況を把握されているのですか? 失礼ながら、ブライト様にはまだ教育が必要と存じます。行儀作法が未熟との話も聞きますし」
「行儀作法が未熟?」
そうした噂まで流れているとは思わなかった。確かに行儀作法にはあまり自信がないものの、ブライトはこれでも相当に気を遣ってきているのだ。もしや行儀作法を指導する教師に逃げられたとの噂に尾ひれがついたのだろうかと訝しむ。
「ご存知ないのですか? お茶会ではいつも最後に来られたり、出てきた食事に禄に手もつけないでいらっしゃったりなさると。はじまりの挨拶さえまともに言えないともお聞きしました。人の話には同意せず頑なに意見を通そうとするといったお話も」
具体的に言われるうちに、タタラーナの顔が浮かんだ。もし、タタラーナのいうところの周りの力でブライトの礼儀作法の悪評までも広げられていたとしたら、ハレンが聞いたという話も分かるのである。
「それで、便乗してあたしの悪口を?」
ハレンが視線を反らした瞬間を、見逃さなかった。確かにその流れならブライトのことを悪く言ったのも説明がつく。けれど、ハレンは元家庭教師だ。ハレンが言えば、噂に信憑性が増す。
「何のことでしょうか」
認めないからこそ、確信してしまった。自分のことを悪く言われても平気だと思っていた。けれどそれが、他でもない好きだった人からの悪口だと酷く堪えるのだ。
「シラを切らないでください。あたし、寂しかったんです。ハレンに酷いことを言われたと聞いて」
ハレンはバツの悪そうな顔をしている。
「でしたら、ブライト様こそ私を解雇せずそのまま雇っていただけたら宜しかったですのに」
それができたら、どんなに良かったか。
滲んだ表情は暗がりでもよく見えたようだ。ハレンは小さく首を横に振る。
「お忙しいのでしょうが、もう少しだけご自身を省みてはいかがでしょうか。せめて、噂が出ないように手立てを」
ハレンの言葉が、まるで針のようだ。膨らんでいるブライトの気持ちを簡単に割ってしまう。
「頑張っています、あたし」
ぽつりと、白い息とともに吐き出した。その途端、風船から空気が抜けるように一気に感情が溢れ出す。
「お茶会、本当は好きじゃないんです。皆、あたしのことを探るような目で見てくるし、気を遣ってばかりで、疲れちゃって。それに執務をやらないと民をないがしろにしているなんて話まで出るから、そちらも手が抜けなくて。なのに、書類を見ても何書いてあるか分からなくて、相談に来られる人の話もよく分からずに同意することしかできなくて……。本当にこれでいいのかと言いたくなります」
堰き止めていたのに、一度掃き出してしまうと止まらない。整理がつかないまま、こんな風にハレンに甘えたのは何時ぶりだろうと思い返す。
「魔術ももっと本当は使っていて楽しいものを覚えたいですし、お手紙書くのも正直疲れます。お父様の死を悲しむ時間もないんです。気がついたら全然寝ていなくて、全く疲れがとれなくて、なのにまた朝がやってくるんです。あたし、朝は嫌いです。また、頑張らないといけないから」
「お嬢様」
ハレンが驚いた顔を浮かべている。ここまでの弱音を吐いたのは初めてだったから、当然だろう。
けれど、ブライトに後悔はなかった。むしろ己の気持ちをぶつけて少しだけすっとした。差し出されたハンカチを握り涙を拭くと、ハレンに尋ねる。
「ハレンは、どうすべきだと思いますか?」
ハレンはブライトの思いに対しててきとうにあしらうことはしない。解雇されても尚、真剣に考えるような表情をしてくれる。家庭教師のときによく見せていた顔つきのままだ。
「ブライト様は何でも一人でやろうとなされます。それは優秀故の短所でしょう。誰か頼りになる人物を探してみては如何でしょうか」
頼りになる人物と言われて、ブライトに思い浮かんだのはシエリだった。もういないのだと実感して、余計に悲しくなってくる。
「皆、日に日にいなくなっていくんです。そんな中で誰に頼れば……」
「ブライト様は世間をお知りになりません。世間はブライト様が考えるより広いですから、頼りになる人物もたくさんおります」
葬儀の日に見た奈落の海を思い出した。深く黒い世界は、確かにブライトの知らない光景だったのだ。
「勿論、私もおります。難しいとは存じますが、もう一度雇ってくだされば幾らでも助けに参ります」
腰を折るハレンに、ブライトは朗らかに笑った。涙は引っ込んでいた。
「ありがとうございます、ハレン」
話せてよかった。心からそう思う。
「けれど多分、お母様はハレンを雇うことをお許しにならないと思います」
一度アイリオール家に泥を塗った人間を都合よく雇うとは思えない。なにせブライトが母に願われたのは……。
「ハンカチ、ありがとうございます」
ハンカチを返そうとすると、断られた。
「またアイリオール家の屋敷に訪れたときに返していただけば結構です」
それは、ハレンを雇う前提での話になる。
「ハレンこそどうして再び雇用を望むのですか」
「……それは、ブライト様が心配で」
ブライトは首を横に振った。ハレンが本当にそう思ってはいないことが分かってしまったからだ。
「お給金、そんなに困っているんですか?」
ハレンの表情は固まった。やはりそうだった。今までのブライトでは気づかないことだが、今ならわかる。
「ハレンは平民出身の『魔術師』だから、給金を渡しに夜に出歩いているんですよね?」
「はい。私の家は、貧しいので」
「家族構成、聞いても良いですか?」
ブライトの不躾な質問に、ハレンは素直に答える。
「母と妹がいます。妹には夫がいますが、魔物に襲われて動ける体でなくなり、代わりに妹が仕立て屋で働いています。ただ男と比べて給金が少ないのが常ですから、私が仕送りをしなくてはとてもやっていけない状態です」
ハレンの知らない一面だ。ハレンがどういう存在か、ブライトはこれまで考えたことがなかった。家庭教師として、ただそこにいてくれる存在でしかなかった。いなくなることなど考えたこともなかった。今ある当たり前を享受した結果、今後も続くものだと錯覚していたのだ。
「そうなんですね。では、家族だけはあたしの力でどうにかできないか考えてみます」
「ブライト様?」
ハレンは違和感に気がついたようだ。けれど、これからブライトがしようとすることには到底理解が及ばないようである。
だから、ブライトにはすかさずノートを取り出して一線を引くという余裕を与えられた。一度、事を起こせば後戻りはできなかった。躊躇う気持ちも恐れる気持ちも全てをどこかへやって、ただただ魔術を発動させることに集中する。
そうして、一言。
「ハレン。今まで本当にありがとうございました」
頭を下げて礼を言うブライトの手は、ノート越しにハレンの両手を掴んでいる。発動した魔術はすかさずハレンへと蔦を伸ばすように取り憑いたのが分かった。
息を塞ぐ魔術。この魔術の最も恐ろしいところは一度掛けてしまえば、術者の意思で発動できるということだ。術者にしか見えない蔦が魔術を掛けられた者の喉へと絡みつき息を塞ぐ。その蔦の成長する速度を制御することで発動の調整ができるのである。
しかもこのやり方だと相手の心に作用する魔術を掛けているわけではない為、痕跡が残りにくい。まさに暗殺向きの魔術、もはや呪殺である。
「ブライト様……、一体どうし、て」
ハレンは最後まで言えなかった。喉を抑え、苦しそうに顔を歪めて膝から崩れ落ちる。
ブライトは、すぐさまこの魔術を発動させたのだ。
「雇ってほしいという気持ちは大変ありがたいのですが、ごめんなさい。それはお母様の望みじゃないんです」
ハレンが、ブライトを見上げている。救いを求めるように手を延ばしている。ハレンにはブライトにかけられた魔術の痕跡が分からない。わかっていたら、もっと警戒していたはずだ。
ハレンは確かに優秀だ。だから母が家庭教師に雇ったのだ。けれど、魔術の知識の深いところには及んでいない。きっと、平民のハレンには手の届かない知識なのだ。だから、ブライトのことも気付けなかった。見えない糸を見つけられないなら、ハレンにブライトの意志は読み取れない。たちまち発動された魔術を防ぐ術はない。
――――何も言えずに泡を吹いて倒れ伏す姿は、シエリのときとそっくりだった。




