その778 『引キ返シタイ』
初めて歩く夜道は、意外なほど寒かった。白い息を零さないように気をつける。悴む手をなるべく擦り合わせて、少しでも暖をとる。そうしてから、持ってきたノートを開く。予め法陣を描いておいたノートだ。正確にはわざと未完成にしてあり、発動のときにだけ描き足す形を取っている。
ノートは開いても、暗がりのせいで全く見えない。だから、どのページに何を描いてあったかも言えるようにしてきている。ページの先をわざと切り取って指だけでどのページを開いているか分かるようにもしておいた。たとえば、三ページから五十ページまでは光を歪めて姿を隠す魔術だ。光の角度はその場で計算するよりないので、その調整だけは最後に書き加える形にしてある。五十七ページには、人の動きを止める魔術が、七十七ページには息を塞ぐ魔術が描かれている。これらは相手が触れさえすれば発動するので、最後の一線だけですぐに完成する形にしてあった。
ブライトの持ち味は魔術なのだ。それ以外に強みはない。だからこそ、このノートに頼ることにしていた。
それにしても、夜の都には意外なほど人の気配がある。殆どは警備の者だろう。そのため、屋敷に辿り着くにもかなりの魔術を使うことになった。当然、時間もじりじりと進んでいく。そうすると考えてしまうのだ。
――――今ならまだ引き返せるのではないか。
屋敷に戻って、『やはり殺せません』と報告するだけだ。母は幻滅するだろうが、超えてはいけない一線は超えなくてすむ。大体実の母が、娘に人殺しなど望むものだろうか。母の文字はやはり何かの間違いなのではないか。或いは、一時の感情で書かれたものであって、落ち着いたら考え直せるものなのではないか。
何度もそう言い聞かせる度、母の顔が浮かんだ。一方で分かっていたのだ。既にブライトはミヤンの心を踏みにじっている。『守ってくれる』と言って信頼してくれたミヤンを助けず、ブライト自身がミヤンの心を捻じ曲げた。そしてそれこそが母の意思だったのだ。ハレンにも同じことが当てはまるだろう。だから、ブライトは進まないといけない。指示をされた屋敷に忍び込まないといけないのだ。
そう思うのに、ブライトの足が動かなくなった。屋敷が目と鼻の先に見えている場所でのことだ。鉛みたいに重くなる身体にとうとう耐えられずになり、ブライトの意思をもってしても進まない。
「う、ごっ、いて…………!」
絞り出した声で、自分自身を叱咤する。まだ屋敷に侵入さえしていないのだ。早くしないと、屋敷の中で夜が明けてしまう。そうならないように、ブライトは今すぐ進まないといけない。
なのに、身体が動かない。震えだした身体が言うことを聞いてくれない。これからしようとしていることの恐ろしさと母の願いを叶えることへの必要性とが、ブライトの心のなかでせめぎ合っている。
「なに、か………」
自身の心を麻痺させる魔術はなかっただろうかと、ノートを探る。何も感じなくなれば実行するだけになる。そんな魔術が心の底から欲しかったのだ。
けれど、そんな都合の良いものは持ち合わせていない。ノートを幾らいじっても、覚えてもいない魔術は載っていない。だから決意しないといけない。自分自身の意志でハレンを殺しに行くことをだ。
――――そんなのは、無理だ。
溢れてきた涙を止めきれなかった。ハレンのことが浮かぶ。はじめて魔術を覚えたときのこと、すぐに習得できないことに不満をぶつけてみたときのこと、嬉しくなってつい敬語を忘れて話してしまい窘められたときのこと……。
いくらハレンがブライトのことを悪く言ったと聞いても、ブライトはハレンのことが好きだった。それに、本人の口から直接聞いていないからこそ、どこかで納得していなかった。
「ハレン……」
たまらず零れた言葉は、白い息とともに消えるはずだった。
「お嬢、さま?」
全く予想外のところから聞こえた声に、はっとする。目の前からゆっくりと歩いてくる人影がある。それが見知った姿を形作っていく。
ハレンが、目の前にいた。
何故ここにいるのだと驚いてから、ブライトの姿がはっきりと見つかっていることに気がついた。泣いたからだ。涙が光を歪めて、ブライトの姿を隠す魔術が消えている。完全に消えきっていなくとも、人の思い込みで『ブライトはいない』と思わせられなければ、この魔術はいとも簡単にばれてしまう。
「なんで、ハレンがここに」
「お嬢様、こそ」
疑問だけを残し、二人の間で言葉が途切れる。そのとき、警備の者と思われる足音がした。
「お嬢様、こちらへ」
ハレンに誘導されて、ブライトは夜道を走る。ハレンは意外なほど夜道に慣れているようだった。まるで見えているかのように警備から離れる道を進んでいく。
人気のない場所に連れられると、ようやく息を整える時間が与えられた。
「ハレン……、って、夜道、……慣れているん、だね」
「お嬢様、敬語をお忘れです」
よもや、こんなときまで指摘してくるとは思うまい。ましてやハレンはもう家庭教師ではないのだ。
「慣れているんですね」
けれど、素直に言い直す。指摘してくれるのが妙に嬉しかった。
「私は深夜に時々、都の実家へと帰っているんです。その、給金だけは渡しておきたいので」
家庭教師には元々貴族の人間とそうでない人間がいる。ハレンは後者、都の平民から魔術を覚えて成り上がった優秀な人間だ。だから、実家は貴族区域にはない。
「あたしの……、家庭教師だっ、たときも、……こう、して?」
「はい。区域を跨ぐのは本当は規則破りですが、家自体は貧しいのでどうしても給金が必要でした」
ハレンにもっと位があれば貴族区域に屋敷を持てるが、それは難しいのだろう。
「ただ、今回についてはそういうわけではなく、鳥が……」
「鳥?」
「あぁ、いえ。何でもありません」
ハレンは居住まいを正した。ブライトの息が戻ったことを確認して、尋ねる。
「それで、ブライト様は何故このような深夜に」
当然聞いてくる質問だろう。
「今日、誕生日で……」
まともな言い訳は、他に思いつかなかった。それに、誕生日なのは事実だ。
「それはおめでとうございます。ですが、ここにいる理由にはなりませんが?」
「出歩くの禁止じゃなくなって……」
我ながら酷い言い訳である。
「つい夜更かしして遊んでいたと? 幾ら何でも貴族にあるまじき行いですが。それと、泣いておられたのとは辻褄が合いません」
「す、すみません」
つい謝ってしまった。
「こんなことをされていては、私の雇用にも支障が出るわけです。悪評がついて回っていたのですね」
ブライトが泣いていた理由を答えないのだとみて、ハレンは代わりにそう諦めたように告げる。
「ごめんなさい……」
ただ、謝ることしかできなかった。




