その771 『記憶ヲ覗イテ』
「レンダ。あなたはすぐにミリアの身支度を整えるのを手伝いなさい」
ミリアの怪我の手当をしながら、シエリが指示を出している。ミリアは顔の傷を手当されながらずっと蒼白でぶるぶると震えていた。
「畏まりました。けれど、どうするおつもりですか?」
レンダは不安そうにシエリを見上げている。彼女の手には救急箱があった。ブライトはあのときミリアの怪我を必要ならば医者にみせろと言ったが、この様子を見るに医者のもとには連れて行かなかったらしい。
「一旦、ベルガモット様とミリアは引き剥がすべきです。ベルガモット様はお怒りになっていますから、距離をおいて話せるぐらいに落ち着いてからどうするか考えるべきでしょう」
なるほどと、ブライトは納得する。ミリアが姿を消したのはシエリの判断であったのだ。
「承知しました。ミリア、動けそう? まだ無理なら勝手に部屋に入らせてもらうけれど」
「大丈夫、です」
ミリアはおずおずと答えた。
「すみません、皆さんにご迷惑をお掛けして」
消え入りそうな声で謝るミリアは、ブライトから見てもよく知る姿だった。
「そんなの気にしないで。そりゃ驚いたけれど、ミリアが悪い子じゃないのはよく知っているしね」
レンダは優しく笑いかける。ブライトの記憶では、レンダはミリアと同じタイミングでいなくなっている。この様子では今も一緒に行動しているのだろう。
シエリは、ミリアに対してはっきりと告げる。
「今はあなたとあなたの子供が無事に生き延びることだけを考えなさい」
シエリの優しさと厳しさの混じった発言に、ミリアは俯いている。ただ、嬉しいのだろう。やはり消え入りそうな声で、
「ありがとうございます。召使いの私にこんなにも良くしていただいて」
と礼を述べている。
そこにおすおずと声が発せられた。
「あ、あの、私はどうすれば」
ミヤンの声だ。何をすればよいか分からずにいるようである。
「あなたは、ブライト様のお食事を。空葬のせいでお昼は過ぎてしまったから……、料理長に相談しなさい」
「承知しました」
シエリのため息は露骨で、指示を出されたミヤンの視線は逃げるようにシエリから扉へと映る。居づらかったのか、指示を与えられてほっとしたのか、動きが早かった。
厨房に向かったミヤンは、すぐに料理長にブライトの食事を作るようお願いした。
「それはわかったが、ミリアはどうだった? 怪我をしたと聞いているが」
料理長の関心もミリアにあるらしい。
「シャリスさんは相変わらずミリアが好きですね。シエリさんが手当してくださっていますよ」
「ち、ちがっ。ミリアはいつ見ても細くて死にそうな顔をしているからな。それで気になっただけだ。滅多なことを言うもんじゃない」
「本当ですかぁ?」
「本当だ。大体、駄目だろ」
からかうミヤンに料理長のたじろぐ顔。ブライトにはあまりにも新鮮な光景だった。
「駄目、とは?」
「ひ、人妻は不味いだろ」
「人妻って。シャリスさん、面白い人ですね」
くすくすと笑う声が聞こえる。ミヤンの手元が見えた。手で口を隠して笑っているのだ。
「けれど、実際これからどうなるんでしょうか。旦那様が亡くなられて、ミリアのことが……、私もびっくりしましたけれど、ばれてしまったわけでしょう?」
不安そうなミヤンの声。
「分からん。けれど、お前の話ではミリアは行方をくらますことになるんだろう」
「シエリさんはそのつもりみたいです。なんか、シエリさんは弟さんとミリアを重ねてみているみたいで、実は赤ん坊の世話なんかも病弱なミリアに代わって、殆どシエリさんがやっていたらしいんですよ。どこにそんな時間があったのか、驚いちゃいました。……でも、シエリさんがミリアをどこに連れて行くつもりかはわからないです」
「メイド長は王族の兵士の旦那がいるからな。そこに伝手があるかもだが、凄いことを考えるもんだ」
料理長は話しながらも手元を忙しそうに動かしている。時折火も入れるので、聞こえづらいときもある。ミヤンは気にせず会話を続けていた。
「……俺はどうしたもんかな」
「え?」
不思議なことに独り言のように呟いた小さな言葉に限って、ミヤンの耳にはっきりと届いた。
「シャリスさんも行っちゃうんですか?」
ミヤンの前にトレイが置かれる。そこに順番に料理が並べられていく。その中にはグラスもあった。ミヤンの不安そうに揺れる瞳が映り込んでいる。
「正直に言って、奥様がミリアに手を上げたってのが驚きなんだ。奥様がお優しい方なのは知っているからな。けれど、人は変わる。明るくて天真爛漫なブライト様が、空葬のときにはしっかりとしておられただろ? あれを見ても思ったんだ」
料理長は何か考え込んでいるようだった。最後にクッキーを置くと、
「お嬢様に感想を聞けないか」
とミヤンに尋ねる。恐らくは自信作だったのだろう。それに、トレイの食事はブライトの好きなもので並んでいる。気持ちのこもった料理だった。
「それで、どっちにするか決めようと思う」
視界が滲んで、そのときの記憶は一旦そこまでになった。
再び記憶を覗くと、ミヤンがブライトの部屋に向かっているところだった。コロコロとワゴンを動かしながら、廊下を進んでいく。
そこで、レナードとすれ違った。
「おい」
ミヤンの足が止まる。
「は、はい!」
ミヤンはレナードに対して緊張しているようだ。声が僅かに上擦っていた。
「それはお嬢様の食事か?」
「はい、そうです!」
「とすると、今日も部屋食か。給仕に連絡くらい入れろよな」
レナードの私語はブライトから見て大変珍しい。その光景に、ワクワクしてしまったのが本音だ。普段見られない人間の姿を見れるのは、記憶を読んでいる『魔術師』の特権かもしれない。
「す、すみません。気が利かなくて」
「本当だよ。お前じゃ危なっかしすぎてわざわざ給仕やっているっていうのに、連絡忘れとか元も子もないだろ」
「す、すみません」
レナードは告げるだけ告げると、去っていく。正直意外だった。レナードの仕事ぶりはブライトから見て完璧だったから、給仕の仕事は好きなのかと思っていたのだ。わざわざなどというのだから、本当は他の仕事に力を入れたいのかもしれない。
それから、カラカラとミヤンはワゴンを押していく。ため息をついているあたり、レナードのことを引き摺っているようだ。そうしていると、ブライトの部屋にたどり着いた。
「ブライト様。お食事をお持ちしました」
しんとした空気が返ってくる。このとき、ブライトは部屋にいないのだ。
ミヤンも気がついたようだ。
「料理はあまり動かすとぐちゃぐちゃになっちゃうし、冷めちゃう前に探しに行かないと」
そう、独り言を呟いたミヤンは、ワゴンに載せた料理をそのままにして探しに出かけた。
ミヤンは、ブライトが父の部屋にいると思ったようだ。廊下を進んでいく。そうして部屋につくと、扉にノックした。それでブライトはハリーの調べで、ミヤンが名前に挙がっていたことを思い出す。ミヤンに悪意はないので、単にハリーには扉に触ったことを報告したのだろう。
とはいえ、このときの扉にはブライトの魔術が掛かっている。当然、中には誰もいない。
「ここじゃない?」
独り言を吐き、悩んだようにとことことミヤンは歩き始める。方角は母の部屋だった。恐らく、何事もなければミヤンは母の部屋にいるブライトに会っていただろう。
けれど、ミヤンは先に気になるものを見つけてしまった。
曲がった廊下の先で、足を止めたのだ。音が聞こえたわけでも、何か見えたわけでもなさそうである。勘としか言えなかった。それがミヤンにそこになにかがあるのを気付かせた。そうして、ミヤンはとある一室に入ったのだ。
その部屋は客室だった。昨日まで誰かが泊まっていた部屋だ。その部屋の壁に小さく法陣が描いてあった。それが発動していて、きらきらと光っている。ブライトは既に部屋を見回ったときに把握している。この法陣が、長らく正体の分からなかった『音を拾う』魔術である。
近づいたミヤンは息を押し殺す。
法陣から声が聞こえてきたのだ。恐らくは隣の部屋の声だ。ジェミニのものである。
「君の欲しいものはなんだ」
ジェミニのあまりにはっきりした声は、とんでもないことを告げた。
「そうか。金なのか。とても安易で便利だね。それなら、報奨金という形にしようか。未来の当主の命を守った礼だ」
ミヤンは怖くなって、部屋の奥まで下がった。その勢いで壁にがつんと背中をぶつける音がする。ミヤンの息を呑む音は、壁の音がジェミニに届くことを心配してのものだろう。
だが、『音を拾う』魔術は、隣の部屋の音を拾うのみでミヤンの出した音を隣の部屋の相手に伝えることはしない。
その証拠にジェミニの会話は続いている。
「君が持ってきてくれた紙とペンは見つからないように処分しておいてくれ。いいね?」
「かしこまりました」
了承する声に、聞き覚えがあった。ミヤンの指先が震えているのが視界の端に映り、ミヤンも気が付いたのだと悟る。
暫くして、扉が開く音がした。ぎょっとしたのか、慌てて隠れようとして、ミヤンの視線が忙しく動く。耳が去っていく足音を拾うと、ようやく視線の移動が落ち着いた。
怖かったのだろうが、ミヤンはそこで部屋を出るという行動に出た。ずっと部屋にいられないと思ったからだろうが、下手をすると隣の部屋のジェミニに気づかれる可能性がある。ブライトから見て、中々に危うい行動だった。
けれどその結果、見えたものがある。開いた扉の隙間に、シエリの後ろ姿があったのだ。
シエリはどこかぼうっとしてみえた。ふらつきながら歩き、途中で止まり、再び歩き始める。やがてその姿は廊下の曲がり角で消えた。




