その770 『手ヲ汚ス』
「改めて、ご招待ありがとうございました」
衝撃を受けて頭がじんじんと痺れている。けれど、お茶会の終わりにはどうにか挨拶をすることができた。ミミルもネネも、ブライトの驚いた顔をみて本当に知らなかったのだと思ったようだ。正確にはブライトは弟の存在は知っていてジェミニの策謀を知らなかっただけなのだが、二人はブライトのことを同情の目で見つめていた。
「大したおもてなしもできずに、ごめんなさいね。お気をつけて」
ブライトの礼を受けてフィオナがそう返す。迎えにきたハリーに向き直り、ブライトはラクダの運ぶ車へと乗り込もうとする。
「ねぇ、ブライト様」
そこで、フィオナに呼び止められた。
「本当に分かっていないようだから言うけれど、魔術には臭いが付き物よ。ネネもそれが分かっていてあの反応だったと思うの」
ブライトはきょとんとしてしまった。フィオナの忠告がよくわかっていなかったからだ。
そんなブライトを見つめてフィオナは告げる。
「あなたたちをお人形にしてどうするつもりなの?」
フィオナの言葉は、ブライトへ向けてのものではなかった。
「さっきの、どういう意味だと思う?」
ラクダ車に乗ってカタカタと揺られながら、目の前に座るメイドに声を掛けた。お茶会には必ずメイドが一人必要だ。だから連れてきていた。
「私には、分かりかねます」
感情の起伏の薄い声が返る。
「私はただ、ベルガモット様の指示のとおりに動くだけですので」
意味など聞くだけ無駄だと言うことだろう。ブライトは納得した。
「それもそうだね、ミヤン」
昨日まで母に対して震えていたはずのミヤンは、今はとても静かにしていた。それは、ベルガモットに従うという指示があるからだ。こうなるのかと改めて感じる。
「あたしとまた違う気がするのは何故だろう」
出した指示が悪かったのかもしれない。ブライトは悩む。母の望み通りに、人の心に関わる魔術を覚えた。自分が体感したことのある魔術だったから、病を治す魔術とは違い、習得はすぐだった。問題は、実践だ。これは、ミヤンで行うことになった。母曰く、ミヤンは逃げ出す可能性が高いので、そうするのがよいのだと。
はじめて心に関わる魔術を扱う際には、どうしても失敗がつきものだ。実験体用に人を融通してもらうのも大変なことなので、都合が良いと書いてあった。
勿論、抵抗はあった。人の心を書き換えろと言われて、はいそうですかなどと受け入れられるほどブライトの心は鈍くない。それに、いくら自分が天才と称えられていようが失敗はある。もし失敗したらミヤンの心がどうなってしまうか分からなかった。
「ミヤン。お母様の部屋に行ってもらえる?」
そうブライトが告げたとき、ミヤンは真っ青になった。何か予感があったのだろう。
「あたしも一緒に行くから」
などと説得して、泣きじゃくるミヤンを母の部屋に連れていった。けれど、部屋の中央に描かれた法陣を目にしたミヤンは完全に取り乱し、逃げ出そうとして大変だった。怖かったのだろう。許してくれと何度も懇願された。その度、ブライトの心のどこかが軋んだ音を立てた。
しかし、母の望みはブライトの魔術の成就だ。そうなれば、幾ら怖かろうが掛かってもらうしかなかった。
扉にも魔術を掛けて逃げられないようにしてあったから、ミヤンを法陣の元へ追い込むのはそこまで苦労しなかった。一度法陣を起動させてしまえば、ミヤンに抵抗など絶対にできない。瞳だけがふるふると震えて涙が耐えず零れていたが、その場に固まって驚くほど静かになった。
人の記憶を覗く体験は怖かった。ミヤンは声も上げれずに何度も倒れる。段々弱っていく姿を見ていたら、どうしても自分自身と重ねてしまった。
けれど、感情を書き換える魔術を使うには記憶を読むのが一番良いのだという。それは、相手の強い感情を知ることができるからだ。弱い感情を書き換えたところで、効力は薄い。強い感情であればあるほど、相手の在り方を変えられるのだ。
記憶は断片の塊で、ミヤンの目に映る出来事しか見えない。だから、なるべく感情の起伏を読み取ろうとする必要がある。
ブライトが結論付けたところ、ミヤンの場合は『魔術師』への『恐怖』だった。だからそれを『忠誠心』へと書き換えた。怖ければ従うしかない。そう囁いて、言い聞かせたのだ。
「びっくりするほど効いてはいるっぽいんだけど」
ミヤンは、淡々と物事を処理するメイド長になった。シエリのように自ら提案することもなければ、今までのように抜けていることもない。不思議な変化に首を傾げつつ、改めてミヤンの記憶を振り返る。
ミヤンの恐怖とは、母に心を覗かれたことからきていた。そして、もう一つ。ジェミニがシエリにささやく声が、ミヤンの心を揺さぶっているとみた。
――――そう、ミヤンは見ていたのである。




