その767 『執務ヨリモ』
次の日には、更に人が減った。そこには、シャンも含まれていた。
「どうも、ベルガモット様のお声と精神を心配しての逃亡が相次いでいるようです。ただ、まさかベルガモット様の宝石まで盗まれるとは……」
正直なところ、ブライトの怪我についてシャンに納得のいく回答を返せなかったのは分かっていた。折角用意してくれた弔花も、無駄になってしまった。経緯は話していなくとも、シエリの夫の、花さえも受け取らない意思は伝わったのだろう。だからこそ、彼女は出る決意をしたとみた。
だが、挨拶もなしに逃げ出すだけでなく、まさか母の宝石まで盗っていくとは思わなかった。信頼していたはずのメイドの仕打ちに、母の精神が心配になる。一体これは、誰に相談すべき案件だろう。
しかもそう悩んでいる間にも、ブライトは必死に手を動かし続けないといけない。
「ハリー、恨みたくなってきた」
敬語も捨て去って、ぽつんと愚痴を述べた。
「それは困ります」
素直すぎる回答に溜め息が零れそうになる。それもそのはずだ。昨日の夕方、シエリの家族を帰した後で訪れた客によって、ブライトの生活はまた一変したのである。
「突然の訪問をお許しください。アイリオール家の当主殿にお目通りを」
そう言った声が聞こえてきたのは、シエリの夫を屋敷の門まで送ったときだ。見やると男たちが数名頭を下げてお願いしている。それを、アイリオール家の門番たちが追い返そうとしていたのである。
「あの人たちは何をしているのですか」
気になったのでハリーに尋ねると、ハリーはすぐに答えた。
「販売許可が中々おりないので、当主に直談判をしにきた人たちです」
全くそういう大事なことは言ってほしかった。言われてみればおかしいと思っていたのだ。あれほど執務に忙しくしていた父のことを思い起こす。病気で寝込み、葬儀からここまでで数日間経っていることを鑑みれば、執務が滞っていて当たり前なのだった。
そうして、ハリーに山ほど溜まっていた書類を見せてもらって絶句した。なんで天井につくほどの書類があるのだろうと聞きたくなる。しかも殆どは販売許可などの申請らしいのだが、文面を見ても何が書いてあるのかさっぱりだ。文字は読めるが、ブライトは屋敷の外にあまり出たことがないのだ。市井の話など書かれても理解ができないのである。
だから、とりあえずとサイン欄に署名していく。当主がどうなるか分からないなどと悩んでいる暇はなかった。当主代理でもサインはサインだろう。サイン一つで困っている人が減るなら手を動かすべきである。
「にしても、数が多っ! しかも探すの面倒!」
常に書類の右下にあってくれればよいのに、サイン欄は右上だったり右下だったり、複数ページあるところの最初だったり最後だったりとばらばらだ。
やたらめったらサインしていたら、手が痛くなってきた。当主の名前の横に代理と書かないといけないのも面倒だ。サインが楽になるという理由で早く当主になりたくなった。このままだとペンだこができるかもしれない。
「しかも、販売許可だけじゃないよこれ。魔物の退治に始まり、税率の引き下げの依頼、商会同士のいざこざの解決? 陳情って何? お父様、喧嘩の仲裁までやってたの?」
道理で忙しかったはずである。一部ぐらい引き受けておけばよかったと思うが、ブライトの気持ちに反して父は断固として執務を手伝ってもらおうとはしなかった。
今だから分かる。父はブライトにアイリオール家を継がせる気がなかった。だから、執務を教える必要がなかったのだ。
「いや、そうなるかもしれないけど、直近の困りごとはあるわけで」
考えていたらむしゃくしゃしてきた。
「もう! 一旦休憩」
窓を見ると、既に夕方になっている。これだけで今日一日が終わりそうだ。
「ブライト様」
トントンというノック音に振り返る。
「葬儀の件でご相談がありまして」
ミヤンである。結局、シエリの後釜はミヤンになっていた。まだ若いものの他にメイドがいなければ仕方がない。
「お返しをしないといけないのですが、いかがしましょう」
シエリならばきっとある程度見繕ってきてくれた。ミヤンではそれがない。ハリーならば、恐らく聞かれない限り提案もしてこない。
人手不足の深刻さはここにも現れている。ため息をつきかけてから、呑み込む。まだ休んではいられない。
「アイリオール家としておかしなものは贈れないから、いただいたものの相場を出してもらえる? それを元に贈るものの金額を選定するから」
「かしこまりました」
そうしてミヤンが去ると、今度はハリーがやってくる。
「お手紙がきております」
内心ではまた文字かと、げんなりした。
「クルド家から?」
クルド家、正確にはジェミニ個人に向けては、再三手紙を出している。一度話し合わないかという内容だ。家についての詳細は記述しておらず、失礼に当たらない程度の質素の文書にしてある。
もし、ジェミニがブライトの弟のことを話に持ち出し、ミリアたちに当主の座を譲れと言う気ならば、いつかは話し合いをしなくてはならない。だから乗ってくるかと思ったが、音沙汰がない。何か理由があるのか、それともミリアのこととジェミニは全く無関係で単に忙しくしているだけなのかがはっきりしない。故に、届いたという手紙で少しでも真意が分かると嬉しいと感じる。
ハリーはそんなブライトの心中を全く察することなく、明瞭に答えた。
「いいえ。シャイラス家からでございます」
「というわけで、あたし宛にお茶会の招待状が届きました。父のことでまだ気力が湧かないので後にしてほしいとお返ししようと思います」
ブライトに届いたお茶会というのが、何だか不気味だった。いつもならばお茶会の誘いは母が呼ばれるものだ。それがまるで、母では出席できないからブライトを呼んだと読み取れる。
「それから、お母様の宝石を持ち逃げされました。相手は恐らくシャンではないかと」
かきかきと母の文字を書く音が聞こえる。
「私達には敵がたくさんいます。消さないといけません」
文章の鋭さにごくんと息を呑んだ。
「それは宝石を持ち逃げしたシャンのことでしょうか」
尋ねると、首を横に振られメモを渡された。今度は長い文章だった。
「それぐらいは些細なことです。もっと対局をみないといけません。そして、利用できる味方も探さないといけません。まずは情報を集める必要があります。貴族の話にこそ耳を傾けなさい」
領地の人間は一旦捨て置けとも書いてあった。つまり、それはシェイレスタの都の人々がどれほど困ろうとも執務など置いておけということだ。当然、後見人である母がブライトに代わってサインをするとも思えない。手を煩わせるつもりもないが、そもそもその考えもなさそうであった。
「え、でも」
「それが、私の望みです。私のことを」
文は途切れていた。けれど、言いたいことは分かった。だからブライトは答えた。考えを変えた。
執務の優先度は大きく下げて、貴族との付き合いこそを優先する。執務がどうしても気になるのであれば、早朝の数時間だけ早く起きて時間を使えばよいことだ。
「はい、一番に考えます」




