その764 『裏切リノ末路』
次の日、悲鳴が聞こえてブライトは目を覚ました。大急ぎでメイドを呼ぼうとしたが、そんな時間もないと気づき寝間着で外に出る。聞こえてきたのは、母の部屋からだったのだ。
廊下を走っていくと、母の部屋の前に食器が散らかっているのが見えた。何かが起きていることは間違いない。荒い息をつきながらも部屋の前に辿り着いたブライトは、早速ドアノブに手を伸ばす。
「す、すみません。すみません!」
扉を開けた先でミヤンが謝り叫んでいた。地面に座り込み、両手を顔に当てて、わっと泣いている。その手からぽたぽたと血が落ちていた。
「お母様? これは一体」
母は、ミヤンの近くで、扇を手にして立っていた。母の扇からは血が滴っているので、ミヤンの怪我は母によるものだということは分かる。
「わ、私がわるいんです。私が、勝手にお食事を」
全身を震わせて必死に謝るミヤンは、まるで小動物のようだ。
母はそんなミヤンを冷たく見下ろしている。嘆息すると、近くにあった紙に書き殴った。
「このメイドを追い出しなさい」
「とりあえず、ミヤン。外へ」
母に礼をして、ブライトはミヤンを立たせる。そうして、ミヤンと共に廊下に出る。
「すみません、私」
ミヤンはすぐにブライトにも謝った。震えは止まっておらず、目は真っ赤になっていた。
「まず、その怪我を何とかしよう?」
散らかっているお皿のうち割れているものを見て蒼白になるミヤンに、ブライトはそう告げた。
そうしてから、はたと固まる。今、母の部屋から血を流したメイドが出てくるのは不味いのだ。更にアイリオール家から人がいなくなりかねない。
とりあえず、目撃されないようブライトの部屋に連れて行った。ミヤンに待つように告げ、ブライトの怪我のことがバレているシエリを探しに行く。幸い居間で他のメイドと話していたところだったので声を掛け一緒に来てもらう。
「その怪我は一体」
「メ、メイド長。す、すみません」
シエリに尋ねられても、ミヤンはまだ泣きながら謝っている。
ミヤンに手早く包帯を巻いていくシエリを見て、やはりシエリにきてもらって正解だったと感じた。シエリの動きはとても手慣れていたのだ。
「実はお母様の前の廊下も散らかったままなのですが、頼めますか?」
シエリはさすがに心得ていた。すぐに頷く。
「ブライト様。ミヤンは手を傷めていますが着替えぐらいは手伝えるでしょう。寝間着で飛び出したのは、よろしくないかと」
ちゃっかり、お小言を言われた。とはいえ、事態には気づいているようで、すぐに片付けに出ていってくれる。
丁寧に包帯をされたミヤンの手を見ながら、ブライトはまず謝罪した。
「ごめんね。痛かったでしょ」
「そんな、ブライト様が謝ることでは。私がお食事を勝手に持ち込んだので」
ブライトは、そこで更に固まる。そういえば先程もそう言っていた。
「えっと、昨日みたいに食べたってわけじゃないんだよね」
だから母が怒ったと思っていたのだ。
「す、すみません。あのときは」
顔を真っ赤にして俯くミヤンは、食べたとは言わなかった。
「夜はベルガモット様のお部屋に行くのだと窺って、私、ブライト様のご夕食をベルガモット様のお部屋の前に置いたのです」
ブライトの夕食は、厨房ですませたわけだが情報が伝わっていないようだ。それに、それがどうして、血を流すことになったのかまだよくわからない。続きを促すと、ミヤンは続けた。
「勝手でした。自室でお休みになられたと知って、慌てて下げにきたんです。そのとき食器を落としてしまって、ベルガモット様が気づいて自室に手招きされたと思ったら」
ミヤンの手は、まだ震えている。それで気がついた。母は扇でミヤンの手を斬っただけではない。ミヤンの顔色の悪さはそれ以外のものだ。恐らくはブライトのときと同じで、ミヤンの記憶を読んだのだ。
しかしそうなると、ミヤンには手を斬られるだけの何かがあることになる。さすがに気を失ったミヤンを起こすのに斬りつけるとは思えないからだ。よく分からないと思ったところで、思い出した。
「昨日はシエリに湯浴みをしてもらっていたから、あたしが部屋にいることは伝わっていると思っていたんだけど」
ミヤンは驚いた顔をする。
「え、そうなのですか」
何せ夕方前に記憶を覗かれていたので、深夜に母の部屋に行く必要がなかった。
「聞いていなかったんだね」
ミヤンが頷いている。単に抜けていただけか、聞かされていなかったか判断はつかない。
「それよりお着替えを。シエリさんに怒られてしまいます」
言われて、ブライトは頷いた。
「そうだった。早くしないとシエリが帰ってきちゃうね」
言いながらも、ブライトは内心でひやひやしていた。ミヤンにまで傷を見られてしまうからだ。
「お洋服はどちらになさいましょう? 喪に服していますのでまだ暗めの服でしょうか?」
そう言いながら立とうとするミヤンを必死で止めた。
「ミヤンは休んでて。あたし、自分で着替えるから」
「え? ですが」
怪我なら大丈夫だと言われそうだったので、別の方向で話をする。
「ちょっとこの機会に自分で着替えてみたいかなって。お父様が亡くなって、あたし魔術以外何も知らないんだって気が付いてね」
まだミヤンは困った顔をしている。どちらかというと、着替えを一人でしたがるブライトを訝しむのではなく、主の部屋で所在なさげにしないといけないことへの困り顔のようであった。
「もしおかしかったら、直してくれると嬉しいかな?」
だから、ブライトがそう仕事を依頼すると、ようやくミヤンは納得したように頷いた。
内心ほっとしながら、衣装を取りに行く。なるべく簡単なドレスを選ぶとミヤンの視界に入らない位置で、せっせと着替えた。
「どうかな?」
まだ椅子に座らせたままのミヤンの前でくるりと回ってみせる。
「完璧でございます!」
確認を終えたミヤンが感心の声を上げる。両手を合わせて感動したせいで、痛みが走ったのだろう。痛そうに顔を歪めた。
「ミヤン、無茶はだめだよ」
「はい、すみません。でも、ブライト様は本当にご立派ですね。何でもご自身でできるようになられて……」
またそれかと、ブライトの顔が歪む。ハリーが脳裏に浮かんだのだ。
そのときトントンと、ノック音がして、二人の視線が扉へと移る。幸いにして、ミヤンに今の顔を見られずにすんだ。
「ブライト様、大変でございます!」
ハリーの大声に、今度は何事だと頭を抱えたくなる。何か言おうとしたミヤンを制して、
「入っても良いです」
と声を掛けた。
「ハリーさん、幾らなんでも淑女の部屋に土足で……」
ミヤンがすぐに入ってきたハリーを嗜める。ハリーは何か言おうとしてミヤンの手に気がついたようだ。ぎょっとした顔をする。追求はされたくなかった。だからすぐにブライトは声をかける。
「ハリー、どうしました?」
「それが、つい先程メイド長が急死なさいました」
あまりにも急すぎて、理解が追いつかなかった。シエリとは、つい先程話をしていたばかりなのだ。
「何を言って」
ミヤンの声が震えている。
「冗談きついです、ハリーさん」
「本当でございます。厨房で急に喉を掻きむしって倒れたのです」




