その761 『ハジマル悪夢』
廊下に出ると、外は眩しかった。これならば叩き起こす必要もない。母に待つようにと告げ、ブライトは慌ててハリーを呼びに行った。
「ハリー! いるの?」
「ブライト様!」
廊下を駆け続けた先でハリーの声がした。少しして、ハリーが現れる。
ハリーもまた、ブライトを探していたようだ。ブライトが昨日と同じ服装をしているのに驚いたようだが、すぐに声を張った。
「すみません。ミリアが消えました!」
ブライトは思わず足を止めた。
「他にも、数人のメイドがいません」
父の日記の文字が、人には二面性があることをブライトに教えた。だからこそ、もしやと思ってしまう。身体が震えはじめるのを止められない。
もしかしたら、母の言う通り、ミリアは父を誑かしブライトたちを騙して行方をくらませたのかもしれないと、そうちらりと考えてしまうのだ。
動揺した顔をするハリーもまた、何か抱えているのかもしれないと思うと、誰を信じたら良いか分からなくなってきた。
けれど、今この事態において、そうしたことは些末だ。ブライトには何よりも優先すべきことがある。
「昨日医者は結局呼びました? お母様の喉の調子がおかしくて」
「旦那様の担当医の方にまだご滞在いただいていますので、すぐにお呼びします」
ハリーはミリアのことをどうするのか聞かなかった。ブライトもまた、母のことを一番に考えていたために追及しなかった。
「ふむ。身体に異常はありません。これは、恐らくですが心が影響しているでしょう」
先日ブライトたちに頭を下げた医者は、冷静にそう告げた。ブライトにも分かりやすいようにか、診断は至ってシンプルなもので、あくまで淡々と事実を告げようとしているように見受けられた。
「それは、治りますか」
「心ですからね。こればかりは本人次第としか。ただ、あまり無理強いはしてはいけません。それが逆に強迫概念となって、悪化する場合があります」
とりあえず安静にしておくべきだと、医者は告げた。
「なるべく精神に負担を掛けることは避けたほうが良いでしょう」
その助言に、内心で頭を抱えた。それは死んだ父に生き返ってもらうしかないかもしれないと考えたからだ。そうしたらまだ、怒りの矛先を父にも向けられたはずなのである。今、母にミリアがいなくなったことを告げるのは、まさしく精神の負担になりそうで憚られた。
「お母様。とりあえずお医者様の言う通り、安静にしてください」
母は大人しく頷いている。昨日までの嘆きようや錯乱状態を思えば、落ち着いたほうだろう。声が出なくなってもパニックになっていないようであるのが救いだった。
「皆さんも駆けつけてくれてありがとうございます。一旦、お母様には安静にしてもらいたいので、部屋から出ましょう」
ブライトはそう告げて、母の部屋から医者とともに駆けつけてくれたシエリ、ハリー、シャンを追い出す。振り返ると、母は大人しくベッドにいた。医者が処方した精神安定剤は眠気を誘うようで、とろんとした目をしている。
そうして廊下に出てから、ハリーだけを呼び留めた。
「ハリー、誰がいなくなったか纏めて下さい」
「畏まりました。ブライト様は?」
「あたしはちょっと部屋に帰りたいです」
まずは傷だらけの手をなんとかしたかった。母の部屋とブライトの手の傷は、一応ブライトの魔術で水を呼び出して洗ってある。さすがに、血の臭いがしていたら何も知らない医者やハリーたちに驚かれてしまうからだ。包帯も母の部屋から借りてあった。だから、今は包帯の上から黒い手袋をして傷を隠してある状態だ。
ただ、如何せん慌てて医者を呼びに出てしまったために雑なのである。一度綺麗に治したかった。
それに、気を失ったとき以外、ろくに寝ていない。ご飯も食べていない。だからとにかく休息が欲しかった。
「まとまり次第、部屋に来て下さい。あたしが寝ていたら起こしてくれていいですから」
「畏まりました」
ハリーのことだ。本当に起こすだろう。
そんなことを考えつつ自分の部屋に戻ると、扉の前で何か怪しい動きをしているメイドを見つけた。
「何をしているの?」
はっとして、振り返ったのは、メイドのミヤンである。その口に生クリームがついていた。
「す、すみません。ブライト様!」
「えっと、何しているの?」
ミヤンは答えられずに口をあわあわさせている。とりあえず、今口の中に入っているお菓子は食べてしまえばよいのにと思った。
尚、ミヤンの隣にはワゴンがあって、そこには皿が積んである。
「ひょっとして、あたしがいない間に食事を運んでくれた?」
食事もずっととっていないブライトが自室にいると思って、料理長が気を利かせて運ばせたのだろう。
こくこくと頷くミヤンはごくりと呑み込むと話し始める。
「す、すみません。私、勿体ないと思って、つい」
何もその場で食べずともと思ったが、ミヤンらしいといえばらしい。
「良いよ。昨日はお母様の部屋にいたからすれ違っちゃったってことだもんね。確かに勿体ないし、好きに食べて」
「そ、そんな。すみませんでした!」
とても恐縮されてしまった。慌てて逃げていくミヤンをみて、ブライトは佇む。いつもなら追いかけて一緒にご飯でも食べるところだが、先に腕の包帯の気持ち悪さを治したかった。
部屋に入って、まずは包帯を直し、ちゃんと止血をした。それから自分で着替えをすませ、汚れた服を洗う。どれも慣れていないせいで大苦戦したが、もしメイドを呼んで血の付いた喪服を見られたら大事になるという自覚があった。
「ブライト様」
何度かノックされて、気がついた。いつの間にかうつらうつらしていたようだ。やはり、ハリーは気にせず起こしに来た。
時計をみると寝てから三時間ほどが経っていた。思ったより時間がかかったなと思いながら、扉を開ける。
「ハリー、纏まりました?」
「はい。判明しました」
ハリーの報告を噛み砕くと、ミリアとその周囲にいた者の殆どが姿を消していた。父の担当をしていた者も軒並み消えている。
「館から半数の人間が逃げ出しましたって、……これは凄いねぇ」
もはや他人事のようにブライトは呟いた。どおりで纏めるにも時間が掛かるわけだ。よもやたった半日でこうまで減るとは思わなかった。
「朝の時点では数人って言っていたはずですけれど?」
「すみません。どうも先ほどの時間までにさらに大勢が消えており……」
そんなことがあるのだろうか。ブライトにはいろいろ信じられない。
「急にこれだけ消えたら皆当然見てますよね? 何か聞いていないのですか?」
「それが、よくわからないのですが、新しい領主様に仕えるためと言っていたそうです」
ハリーは、本当にわかっていない顔をしている。
けれど、ブライトのなかでは、がらがらと何かが音を立てて崩れていった。今までは考えもしなかったことだ。常に皆が喜んでくれていて、おだててくれていて、それが全てだった。ようやく現実が見えてきた気がする。
間違いなく、ブライトに弟がいたという話が漏れているのだ。そして、母の声が出なくなったことも伝わって、更に逃亡者が増えたとみえる。
弟がいるだけだったらブライトの生活は以前と変わらないと思っていたが、甘かったと思い知らされた。世話をしてくれた皆が屋敷から出てしまったら、当然元の生活には戻れまい。
「ジェミニさんは帰られたんでしたっけ?」
「暫く心配なので滞在すると言われていたはずなのですが、確かにお見かけしておりません」
ミリア本人がいなくなったのだから、本人が周囲に弟の存在を告げたかと思った。
だが、少し考えればジェミニの仕業かもしれないとも思えてくる。むしろ、そのほうがしっくりきた。ブライトの中ではミリアは控えめでいつも俯いている人だった。その彼女にいくら二面性があったとして、周囲に子供の存在を訴えたところで、周りがついていくとは思えない。ミリアでは動かせる人に限界があるはずだ。こうも一気に大勢の人間が出ていったということは、それだけの力のある人間の発言があると見て良い。
ジェミニに裏切られたかもしれない。
「いや、そもそも仲間じゃないんだっけ」
小声で呟き頭を整理する。ジェミニはブライトたちを心配して葬儀の手伝いをしてくれたが、それだけだ。弟がいたと知って、母がミリアを叩いたのを目撃したのだから、まず弟とミリアを助け出そうとしたのだろう。世話役の召使いたちも一通り連れ出した結果が、今に至るのかもしれない。
しかしそうだとすると、この先ブライトたちはどうなるのだろう。アイリオール家を、顔を見たことのない弟が継ぐことになるのだろうか。そうなったとして、ブライトは果たしてこの屋敷にいられるのだろうか。
追い出されるかもしれない。その可能性が頭に浮かぶ。ジェミニとは、そもそも挨拶したばかりの間柄だ。親切だと思っていたが、人には二面性があることをつい先程学んだばかりである。ましてや普段から付き合いのある人物でないので、人柄もよく分かっていない。だからこそ、ジェミニがどこまでのことを考えて行動に出ているのか、ブライトには分からない。
けれど一つだけ確実なことがある。もしブライトが追い出されたとしたら、それはきっとブライトだけでなく母も同じだということだ。
――――それだけは、避けなければならない。
声の出ない母には療養が必要だ。屋敷を追い出されたら、親戚もいないブライトたちではどこにも住む場所がない。
そうなると、ブライトは何をすればよいのだろう。考えてもよくわからなかった。魔術と違って、どうすればよいか本に記してあるわけでもない。
「とにかく皆混乱していると思うから、残っている皆には心配しないでって伝えておいて下さい」
他に何を言えばいいか分からず、とりあえず思いつくことを告げる。
ハリーはすぐに頷いて、部屋を出ていった。
「とりあえず、何か考えないといけないのは確かなんだけど」
そこできゅうとお腹が鳴き、空腹を意識する。頭が回らないのは、空腹のせいもあるのだろう。
「まずは、ご飯を食べたいかな」
出て行ってしまった人の名前に、料理長もいた。ご飯はさて、誰に作ってもらうべきだろう。




