その760 『信ジテ』
ぎりぎりと歯を食いしばる音で目を覚ました。いつの間にか、また倒れていたらしい。
「あの女、ブライトにお菓子なんて与えていたなんて!」
母の手にある扇がぎしぎしと音を立てている。今にも解けてバラけてしまいそうだ。
「壊れるよ」
と声を掛けたかった。その前に怒りの声が漏れ聞こえる。
「餌付けのつもり?」
母のなかでは、ミリアは完全に悪女なのだ。それが伝わってきて、悲しかった。ミリアはいつも大人しくて話しかけても俯くことが多いけれど、ブライトたちのことを悪く思っていないはずだ。否定したかったが、声を発する元気が湧いてこない。瞼をこじ開けるので精一杯だ。
目が覚めたブライトに気づいたようで、そっと握らされた。扇だと、その冷たさから判断する。
「よく頑張ったわね。さすが、私のブライトだわ」
褒められても嬉しくはなかった。いつもみたいに魔術を習得して褒めてくれるときとは全く違う。母のギラギラとした目が、怖くて仕方がない。
「さぁ、扇を開いてみて」
言われたままに、重い手を動かす。握らされたそれはただの扇ではなかった。先端に刃がついている。ぎざぎざとした刃は血を拭いた跡が残っていた。ミリアが顔から血を流していたのは、この刃のせいだろうとぼんやりと考える。
「わたしのことを一番に考えますって言って」
「お母様のこと、一番に考えます」
言われたとおりに返事をする。いつの間にかまた話せるようになっていたことさえ意識できなかった。下りてきた指示をただ繰り返す、それぐらいしか今はできそうにない。
「あなたの体より」
「あたしの体より」
だから、淡々と繰り返す。それだけでも、正直にいって辛かった。唇をこじ開けるのがここまで大変だとは思わなかったのだ。
そっと、左手を持ち上げられる。素肌を優しく撫でられる。
「証明して見せて」
まだよく分からなかった。ぼんやりとした意識が覚醒するのに時間が掛かっている。
辛抱強く、母は続ける。
「折角だから、あなたの好きな法陣を描きましょう。証明してみせて」
肌に母の冷たい指先が触れる。一本の線がなぞられて、今度は別の方向から線が描かれる。
法陣だ。はっきりしない頭でも、自分の好きな魔術だからわかってしまった。一気に頭がはっきりしてくる。母に何を求められているか理解してしまったのだ。
母の顔を覗き見ようとし、赤いその目と目が合う。にこりと微笑む母は、甘い声でこう告げた。
「さぁ、あなたの言葉で、私のことを一番に考えるって言って」
そうして、扇をブライトの腕へと当てる。
「ちゃんと、刻んで」
痛みと血の臭いに、意識が飛びかけた。扇についている刃は、とても切れ味が良かった。力加減が難しいうえ、薄くなぞるだけでは再びやり直しと言われてしまった。
痛みに思わず呻くと、そっと口を抑えられる。
「聞こえちゃうわ。静かにね」
声が出ないと、この魔術は無効になるのだろう。
それだけは分かって、ブライトは言う通りにした。腕に自分で傷を作っていく。
「私のことを一番に考えますって言って」
「お母様のこと、一番に考えます」
言われたとおりに返事をする。反対しようとは思えなかった。嫌だと言って泣きつく発想が何故かどこかにいってしまったからだ。
「あなたの心より」
「あたしの心より」
痛みに耐えながら、法陣を綴っていく。そうしてふと気がつくと、母の泣き声が耳に届いた。母の姿を振り仰いだブライトの目に、泣きじゃくる母の姿が映る。何故か「ごめんね」と小声で何度も謝っている。
「こんなことをさせてごめんね。痛いよね?」
「お母様?」
どうしてブライト以上に痛そうで、辛そうな顔をしているのだろう。今、この行為は他でもない母の指示でやっていることだというのに、理解ができない。
そう思っていると、母は涙ながらに訴えた。
「私を信じさせて。あなたは裏切らないってちゃんと」
きっと、それだけ父の裏切りが恐ろしかったのだろう。長年、表面上は優しく接してくれていたはずの父の心の内を日記という形で覗いてしまって、絶望したのだ。父の死を認めないどころではすまなくなってしまった。だから、母は何か確信が持てる一手を魔術に求めたのだ。
けれど、母は酷い思い違いをしている。こんなことをしなくても、ブライトには元々裏切るつもりなどないのだ。
「心に刻んで。そうしたら、きっと裏切らないってわかるから」
抵抗できなかったから、せめてと本心で告げた。
「お母様のこと、一番に考えます。お母様が幸せになれるように」
きっと、魔術の影響なのだろう。刻みながらも、ブライトの意識は何度も彷徨った。そのなかで、何度もそう告げた。それで、安心してもらえるならと思っていた。
ブライトは母を泣かせたくなかった。悲しんでいたら、慰めてあげたかった。どうせなら、楽しそうに笑う顔を見たかった。いつもの優しい母に戻ってほしかった。
けれど、ようやく法陣を刻み終わったとき、母がいつの間にか静かになっていることに気がついた。見上げると、母は自分の喉を抑えている。
「お母様?」
それからブライトへと手を伸ばした。何かを訴えようとしているその姿は、皮肉にも死に際の父にそっくりだった。
「お母様、どうされたのですか?」
ブライトはそれで気がついた。
「お母様、しっかりしてください」
母の声が出なくなってしまったのは、このときだった。




