その757 『父ノ秘密』
中庭に下りた飛行船はがたがたと音を立てて、周囲に風を送った。思わず目を細めたブライトのもとに、操縦者らしき女がやってくる。操縦席から飛び降りて、軽い身のこなしでやってくる様を見ると、相当に飛び慣れているようであった。
「ご家族の方ですね?」
女に確認されて、頷く。
「では、後部座席にお乗りください」
「ハリー、あたしが不在の間、頼みます」
ブライトと操縦者の女二人が乗っただけでいっぱいになる小型飛行船だ。お供は誰も連れていけない。だからハリーにそう一言声を掛けて、ブライトは早速飛行船に乗り込む。乗り方がよく分からず戸惑ったが、操縦者の女に
「失礼します」
と担がれ席に収まった。
女は慣れた動きで前の席に飛び込むと、ゴーグルをはめ、背後のブライトに声を掛ける。
「では、これから奈落の海まで飛ばします。遺骨はご自身で流されますか」
骨壷を握る手に力が込もる。
「はい」
頷くと、ふっと目の前の女に笑みを浮かべられた。
「失礼。忍耐があるなと思いまして」
意味が分からず眉をひそめる。
「過去、ご令嬢の皆様は飛行船に乗るのも躊躇われたものですから」
ブライトの返事を待たず、体が浮く感覚があった。
「飛行石により元々少し陸から浮いています。今から本格的に飛ばしますので、よろしくお願いします」
更に浮き上がると聞いて、ブライトは骨壷を強く抱きしめる。気持ちの悪い浮遊感がブライトに襲いかかったと思うと、熱気が吹きつけた。砂っぽさに目を細めながら、太陽からのじりじりとした熱に耐える。
そうしてからふと見下ろすと、屋敷がとても小さくなっていた。もうハリーの姿もシエリの姿も確認できない。
代わりに何隻かの飛行船が屋敷の近くを飛んでいるのを目にする。恐らくは遠方からきた客人の飛行船だろう。すぐに帰る予定であるらしい。
「では、参ります。もし体調が悪くなりましたら、こちらの伝声管で合図をお願いします」
声は前方の女からではなく、すぐ手元にあるラッパの形をした機械から聞こえた。これに話しかけると前方の人間とよく話せるらしい。確かに風の音が強くて後ろにいると声が聞こえない。
「わかりました」
試しに返してから、ブライトは再び外を見る。灼熱の大地はとにかく暑く、まだるっこしい熱気がブライトにかかるが、不思議と嫌な気分ではなかった。眼下では多くの建物が見え、そこに行き交う人々の暮らしが垣間見えるようだ。空は黄色い砂に覆われていることを除けば広々としており、時折蜃気楼のように揺れて見えた。
これが空を飛ぶことなのだと実感する。飛行ボードで父の背中にしがみついたときとは段違いだ。このようなときでなければ、きっと楽しかっただろう。
暫くは外の景色を楽しめた。見たことのない赤茶色の大地を抜けて、稀に飛んでいる鳥たちを見つめて手を振る。
「そろそろ海です」
やがて女から告げられる。目を凝らした先で赤肌の大地がくっきりと切れている。その外に、謎の黒い空間がある。
「あれが海?」
よくみると、白い泡のようなものがみえた。その泡はまるで動いているようだ。
「遺骨を流す準備をお願いします」
言われて手に持っていた骨壺を抱え直す。蓋をあけると中からさらさらとした砂が見えた。骨を流しやすいように粉にして砕いてあるのだろう。これがかつての父だったと思うと、さわるのも躊躇われた。
けれど、ブライトは自分で流すと答えてしまったのだ。
「さぁ、流してください」
言われて、遺骨を流した。傾けた壺の先から溢れていく砂は、海に向かってきらきらと舞い落ちていく。
こんな深い海に落ちて、父の魂は果たしてどこに向かうのだろう。不思議だった。
飛行船は旋回して、屋敷へと戻る針路をとる。頬にかかる熱を浴びながら、ブライトは眼下に見える景色を一心に見つめていた。どこまで見渡しても続くと思われる黒い海に砂漠。そのなかにぽつんと浮かんでいるだけの小さな都。そして、ブライトがいるのはそのなかの僅か一軒の屋敷のなか。外に出たこともあまりなかったブライトにとっては、未知の世界だ。父には多くの知り合いがいたことを改めて思い起こす。母の途方に暮れた顔を思い浮かべる。
「あたしは、これからどうすれば良いのかな」
今までと同じ生活はできないことは感じている。これまでは狭い範囲の中で籠の鳥のように大切にされてきたのだ。
けれど、これからはそうではない。母の心は折れており、頼れる父は亡くなった。シエリのような人もいるけれど、きっとブライトは今以上に頑張らないといけない。それだけは理解していた。
「ご立派でしたよ」
女から声が掛かる。いつも皆、そうやって褒めてくれる。有り難い話だが、同時にどこか苦しかった。背伸びしないといけないのではないかと、心の何処かが気張ってしまう。
都が近づいてきた。屋敷へと一気に地面が迫ってくる。ハリーたちがブライトの帰りを待つべく中庭に待機しているのが見えた。
「まぁ、なるようになるよね」
ブライトはそっと自分にだけ聞こえる声で言い聞かせる。根っこはお気楽な自覚はよくある。言い方を変えれば前向きで明るいと褒められたものだ。ブライトもそんなことを思える自分自身は嫌いではない。
上からみるだけでも、ハリーやミリア、シエリの姿が確認できた。手を振ったら、礼をして返された。互いに見える距離まで近づいているのだ。
飛行船が着陸すると、操縦者の女は頭を下げて再び空へと旅立っていった。あっという間に消えていく女の姿に、空の世界を自由自在に飛ぶ鳥を連想させられて無邪気に格好良いななどと考える。
そうしている間に、ブライトの元へ皆が駆けつけてきた。
「お疲れ様でした」
と、口々にブライトを労う。ハリーに、ウィリアムにシエリもいた。
「ご立派でした」
ハリーがそう言って礼をする。
「それはさっきも言われたかな」
自分だけに聞こえる声でぽつりと呟いて、とりあえず愛想笑いを浮かべる。そうしてから、ふと視界の端にあった扉ががたんと開く瞬間が目に入った。
あっと、ブライトはそこから出てきた人物に声を上げる。
「お母様!」
母だった。ブライトの方へと向かって歩いてくる。泣き腫らした顔で、ずっと着替えていない衣類のままで、つかつかとヒールの足音だけはいつもどおりに、真っ直ぐ向かってくる。
ブライトはすぐにでも駆けつけようとした。ずっと放心状態だった母が、こうして向かってきている。ようやく立ち直ってくれたのかもしれないと期待したのだ。
そして、ブライトはたたらを踏んだ。
目の前にいたハリーたちもまた、ブライトの声を受けて母の方へと振り返ろうとしており、その動きが彼らの合間を通り抜けようとしたブライトの行く末を邪魔したからだ。
その間にも母は一目散にブライトのほうへと歩いてくるように思われた。
けれど、途中ではっきりと向きを変える。母の足は、ある一人の女の前で止まった。そこにいたのは、ミリアだ。
「お母様?」
違和感に気づいたブライトはしかし、その後の母の行為を止められなかった。
次の瞬間、母は隠していた扇でミリアの頬を斬りつけた。
「えっ?」
誰もが一瞬の出来事にぽかんと口を開けた。そこに、母の金切り声が轟く。
「この端女風情が! お前は、私が奴隷から引き揚げてやったのに! その恩を忘れたと言うの!」
何を言っているのか、分からなかった。ただ、そのまま呆然とみていることはできなかった。
母が、顔から血を流して倒れるミリアに更に斬りつけようとしたからだ。
「と、とめて」
思わず、ブライトは声を上げた。母の扇には刃物が仕込んであることは、ミリアの怪我を見れば一目瞭然だ。それで再度斬りつけられたら、ミリアは大怪我を負ってしまう。
ハリーたちが慌てて母を羽交い締めにする。
「退きなさい! この女を殺すのは私よ!」
母は命令するが、ハリーたちはひとまずブライトの命令を聞くことにしたようだ。
「一体、どうなされたのですか」
驚きの声をハリーが発している。
「この女は、私から全てを奪ったのよ!」
母の言っていることが分からず、周囲の視線は代わりにミリアへと向く。ミリアは俯いたままで、何も話そうとしない。
「少し良いでしょうか」
ブライトはそこで声をかけられて、ぎょっとした。
「ジェミニさん! 帰られていなかったんですか」
ブライトから少し離れたところに、橙色の髪の男が立っている。てっきり他の客人と同様に帰ったと思っていた、ジェミニがそこにいた。
「これからのことが心配で、残らせていただいていました。それでですが」
ちらりとジェミニは母へと視線をやる。何か知っているのだと気付かされるには十分すぎる視線だった。
「とりあえず彼女を自室に連れて行くことを提案します。落ち着いてから話をしてもらいましょう」
ジェミニの提案にブライトは頷いた。それを見て、執事たちが母を引き連れていく。怨嗟の声を上げ続ける母の形相は、今まで一度も見たことがないものだった。ブライトから見てもあれほど美しい人があんな顔をできるとは、思わなかったのだ。
「ブライト様はこちらへ」
ジェミニにそう声をかけられて、ブライトは頷いた。
連れられた先は、父の部屋だった。そうだろうとはブライトも予想がついていた。父の部屋で何かがあったからこそ、母はミリアに怒りを向けたのだ。
「恐らくはこれを読まれたのだと思われます」
ジェミニが机の上に広げられているノートを手に取る。あのノートは、ブライトが部屋を出るまでには置かれていなかった。記憶でははじめて父の部屋に入ったときにもなかったはずだ。恐らく、母が引き出しから漁って見つけたのだろう。
渡されるままにノートを受け取り、ページを捲ると文字が飛び込んできた。
『このところ、私は悩まされている。ブライトはすくすくと育っているが、やはり女だ。いつかはどこかへ嫁いでいくのだろう。そうなると、アイリオール家の跡取りはどうなるのか』
「これは、日記?」
父の字だろう。小さくて細かく、線の細い文字を書く。
「はい。これは俄には信じがたいことですし、私が目を通すべきものではなかったのですが……、次のページをご覧ください」
言われて、ブライトは大人しく次のページを捲った。
『ミリアとともに育んだ子は、男の子だった。ミリアに似て美しい茶髪に赤い目をしている。もうじき三歳になるとは思えないぐらい、既に聡明なところを垣間見せている。間違いない。ベルガモットは悲しむだろうが、この子こそアイリオール家の跡取りに相応しい』
一度読んだだけでは何を書かれているのか理解できなかった。棍棒で殴られたような衝撃が、頭の中で木霊するばかりである。
そんなブライトの衝撃を同情をもって、ジェミニは見つめている。そうして、できるだけ分かりやすく噛み砕いて、事実を告げた。
「どうやら、あなたには弟がいるようです」




