その753 『悲シミノナカ』
エルドナを見送ったブライトは、残りの時間を母と父と過ごした。母は父の遺体から片時も離れようとせず、ブライトなどいないかのように反応しない。ただずっと泣き続けている。
だからブライトは、部屋の中に一人ぽつんと佇んでいる気持ちになった。そうしていると、嫌でもぽつぽつと浮かんでくる。
父と表彰式に出たこと。父と母とで食事をしたこと。魔術を使えるようになって褒めてもらったこと。
無口な父だった。あまり反応のない人だった。それに、いつも忙しそうだった。だから、浮かぶ思い出もそれほど多くない。
それ故に、もっと話したかった。
「失礼します」
扉のノック音に意識を引き戻す。扉の向こうにいるのは、シエリのようだ。
「どうぞ」
「軽食をお持ちしました」
よく気が利くことだ。シエリの親切が沁みた。
「ありがとうございます」
軽食のパンを受け取ったブライトは視線を母に向けた。
「お母様も、食べませんか」
返事は当然のようにない。母は泣き続けているだけだ。
「奥様。お食事でございます」
シエリがそう食事を勧めても変わらない。近づければひょっとするとと思ったのか、シエリはお皿のパンを近づける。
母は、やはり反応しない。口元に近づけられようとうつ伏せたままだ。
「奥様」
シエリは母に手を伸ばした。エキドナがしたように擦ろうとする手の動きだった。
けれどそのとき、母は大きく払う動きをした。
「えっ?」
シエリが相手だと払い除ける手に力が入るらしい。勢いのあまりシエリは尻餅をついた。驚いたような声が遅れてシエリの口から溢れる。
「お母様。今のは駄目です」
痛そうなシエリに、床に転がったパン。お皿は幸いにして割れなかったが、ヒビは入っているかもしれない。
見かねたブライトは声を張ったが、やはり母はブライトのことを見ようともしない。
「お母様」
いくら声を掛けても、非難をしても変わらない。母の心には響かない。母には父が全てだった。ブライトでも友人のエルドナでもシエリでも駄目だ。
少し考えたブライトは自分のパンをちぎり母に差し出した。
「お母様。食べないと、お父様も悲しむと思います」
父の名を出せば或いはと思った。期待して見つめる。
けれど、いくら待とうと返事がない。ブライトに打てる手はもはや何もなかった。
諦めたブライトはとりあえず自分だけつまむことにする。
「良いのですか」
腰をさすりながら立ち上がるシエリに聞かれ、頷いた。
「はい。元々お母様は少食ですし、食べる気にならないのも分かります」
シエリが床に転がったパンを拾うのを見て、続けて聞いた。
「シエリは大丈夫ですか? 怪我はありませんか」
「はい、お気遣いありがとうございます」
冷静な返事だが、シエリは衝撃を受けた顔をしていた。普段の母をよく知っているからこそ、母の行動が信じられなかったのだろう。
「お客様はどうなりました?」
少し考えて、ブライトは他の話を振ることにした。こちらの話も、ずっと部屋に閉じこもっていて様子がわからないから、気になっていた。覗きに行って確認することもできなくはなかったが、母をこの部屋に一人置いていくのは躊躇われたのである。
「はい。遠方の皆様は客室にご案内しました。今は休まれておいでです」
部屋は幸いにして足りたらしい。無駄に広いアイリオール家の屋敷で助かった。
「遠方の方は多いのですか」
「はい。半数はいらっしゃったかと」
アイリオール家はシェイレスタの都を領土としているから特別なだけで、領土を持つ貴族の大半は自領にいる。家としては代表者を立てて貴族区域に住んでいるはずだが、今回はそうではなく敢えて遠方から来られる客が半数もいるらしい。
「お父様と縁のある方なのでしょうか」
代表者よりも父と懇意にしている人物であれば、わざわざ遠方から人を出すのも頷ける。逆に言えばそれだけ父は幅広く周囲の人々と付き合っていたということだ。父の仕事を全く知らないでいただけに、驚きである。
分からないらしく肩を竦めてみせるシエリを見ながら、ブライトは手元のパンをちぎりもせずそのまま口に入れる。椅子にこそ座っているものの、お行儀の良さとは程遠いことをしているが、さすがに何も言われない。
「何か困っていることは?」
ちらりとシエリは母を盗み見た。
「今のところは。ただ、明日の葬儀の準備が必要で」
ブライトはそう言われて、エルドナの格好を思い出した。
「喪服です、か」
「はい」
食事もしない母に着替えは果たして可能だろうかという不安が過る。そうしてから気が付いた。
「あたしはこれから着替えるとして、他の皆様は? お客様はお困りではないですか」
衣類を持ってきていない者はいるだろう。ましてや喪服だ。屋敷から貸出できる衣類はあるだろうか。
そう考えていたから、次の返事は意外だった。
「殆どの方がご持参されていたようです」
気持ちがささくれ立っていたのかもしれない。思わず口に出た。
「まるで、お父様が今日亡くなると分かっているかのような手回しですね」
実際、そうなのだろう。回復すると思っていたら、喪服など持ってこない。先程来たエルドナでさえ、準備をしてきたのだ。
たった数日だ。父が病に伏せてから一週間も経っていないのである。それほど深刻な病気だったということなのだろうか。
「病名は何だったのですか」
「医者の話では、『魔石病』の可能性が高いと」
後で調べた限りでは、有名な病だった。人の内側から石化が進行し、たった三日で人を死に至らせる危険な病だ。原因がわかっておらず感染経路も不明という。薬も発見されていない。人から人へ感染る可能性は低いが、あるとき急に降ってくる呪いのような病であった。
はっきりと自覚をする。何も知らないのはブライトだけだった。もし知っていたら、齧り付いてでも治癒の魔術を習得しようとしただろう。ウィリアムに言われたからではない。ブライトはきっと父の病は治るものと安易に構えてしまっていた。
だから、失ってから後悔する。
「お嬢様」
シエリに声をかけられてはっとした。いつの間にかブライトの目から一筋の涙が溢れていたのだ。
「ごめんなさい」
慌ててハンカチで目元を拭う。それをみたシエリが告げた。
「私はこれからブライト様のご衣裳をお持ちしますので」
一礼をしブライトに背を向けてから、シエリはぽつりと告げた。
「比べるのも失礼かもしれませんが」
一拍を置いてシエリはブライトに声を掛ける。
「私にはお嬢様と同じくらいの弟がおります。弟は身体が弱いこともありますが、本当に手の掛かる泣き虫でして。私個人としては、泣けないお嬢様を見るのは辛いです」
ブライトの返事を待たずにそっと礼をして去っていくシエリを見て、ブライトはぎゅっとハンカチを強く握りしめた。




