その750 『父ノ死』
朝、目が覚めると、屋敷の中がばたばたとしていた。
着替えさせてもらいながら、メイドのレンダに事情を聞いた。どうも、父の病気がすこぶる悪いらしい。
「ウィリアムの、嘘つき」
今はいないウィリアムにどうして嘘をついたのかと問いたくなる。けれど、その暇もないままにレンダに言われた。
「ブライト様も早くお会いになりましょう」
「え、いいの?」
会わせてもらえなかったのに、急に会って良いと言われて戸惑う。
「ええ、とにかくお急ぎになって」
わけも分からず急かされて、父の部屋まで案内される。今まで一度も入ったことのない部屋だ。ドアノブに触れるだけで、どきどきしてしまう。
そうして開いた扉の先は、多くの人々でごった返している。執事にメイドなど見知った者もいれば、一度も会ったことのない人もいる。玄関が賑わっているのは知っていたが、彼らは父の部屋に直行していたらしい。
そうして彼らからじろじろと見られて、ブライトは急に不安になってくる。その視線が、今まで向けられたことのある感心や感嘆とは全く別の感情、――――同情や悲しみの類――――、であることに気がついたからだ。
「ブライト! 良かった。こちらへいらっしゃい」
母の声が聞こえて、ブライトは救いを求めるように視線を彷徨わせる。幸い、すぐに見つかった。父が眠っていると思われるベッドの隣で母が手招きしている。
たまらず駆け寄ったブライトの目に、母の顔がはっきりと見えた。一瞬目を疑う。母の顔色はどちらが病人かか分からないほど蒼くなっていた。目元は真っ赤に腫れていて、化粧で隠すことさえしていない。ずっと看病していたと聞いていたが、たった数日間でここまで人は変わってしまうのかと、ただただ驚きしかなかった。
視線をベッドへと背けると、今度は父の姿が飛び込んできた。元々白い顔をした人だったが、こちらもまるで生気のない顔をしている。母と同じ衝撃を父からも受けた。
母はそっと父の手をブライトに握らせた。弱々しいその手は暑い国にいるとは思えないほどに冷たい。まるでもう、死んでいるかのようだ。
ぞわりと心臓を握られるような恐怖が、ブライトを支配する。不安のあまりに父の手をぎゅっと握りしめた。
「ブライト」
ブライトの感情が伝わったのだろうか。掠れた声が、ブライトの耳に届いた。父が何かを言おうとしている。その言葉だけは聞かなくてはならないと意識を向ける。
「はい。お父様」
何を伝えられるのだろう。ゴクリと、息を呑む。
父は震える唇から精一杯の息を吐きだした。
「すまない」
告げられた言葉の意味が、ブライトにはよく分からなかった。
父が何故謝っているのか、その言葉を何度も咀嚼し考える。
思いついたのは、父がブライトに心配をかけていることを気にしているのだろうということだった。
「謝らないでください、お父様。あたしは大丈夫です」
手をもう一度、ぎゅっと握りしめる。
けれど、父は再び息を吐き出した。
「すまない」
ブライトの声が聞こえていないのかもしれないと、考えた。意識が朦朧としているのか、父の瞳はどこか虚ろだからだ。
しかし、何かが噛み合っていないような違和感が胸中に渦巻いている。それが何か分からなかった。
「あなた、わかる? 他の皆さんも来てくださっているわ」
母が、父にそう優しく声を掛ける。
「あぁ、分かるよ」
父は間をあけてから、ブライトたちにしか聞こえない声で続けてた。
「群がっている。まるで、ハイエナだ」
似つかわしくない言葉に、思わずブライトはきょろきょろしてしまった。母と視線が合うと、首を小さく横に振られる。
どういう意味なのだろう。大人しく父に向き直りながら、ブライトは父の言葉の意味を吟味する。
すまない。群がっている。ハイエナ。
不気味な言葉が先程までの時間に父の口から吐き出され続けている。気が弱っているからそういう言葉が出てくるのだろうか。それとも、ブライトが気付いていない問題があるのだろうか。
詳しく聞きたかったが、父は満足に話せる状態ではなさそうだった。わなわなと震える唇は、こじ開けるのも必死なように見えたからだ。
「ベルガモット」
ようやく吐き出されたのは、母の名前だった。
名前を呼ばれた母が、
「あなた」
と呼び返す。
「お前は私を」
ゴホゴホと父がむせ始める。あまりにも苦しそうで、ブライトは思わず父の背中に手を伸ばした。母も父の背中を擦り始める。
「無理をしないで、あなた」
父はそれでも、どうにか言葉を紡ごうと口を開く。
「私のことを、本当……は、き」
掠れて殆ど声になっていなかった。
「大丈夫。話さないで。無理して話さなくていいから」
母の声は懇願めいていた。
「あとで、落ち着いたときにいくらでも聞きますから、どうか今は無理をなさらないで」
けれど、父は唇だけを必死に動かしている。なんとか言葉を紡ごうとしてか、僅かな息がブライトにかかった。
「あなた? どうしたの、あなた!」
父の瞳がここではないどこかを見つめて濁り始める。差し伸ばされた手は、ブライトや母とは違う方向へと伸ばされ、空を掴む仕草を繰り返す。まるで何かを訴えようとして、息のできない水の中でもがいているかのようだ。
「あなた、あなた! しっかりしてください!」
母が、必死に揺すっている。父の意識がなくなりかけていることに気がついたようで、どうにか呼び止めようとその声は必死だ。
ブライトはそんな母を見ながら父の口の動きを追った。
――――すまない、我が主よ。先に逝く。
それは、母への言葉ではなかった。父が本当に最期に告げたかったのは、ここにはいない人への言葉だった。
「私達にはあなたしかいないんです! だから、おいていかないで!」
母の悲鳴に近い声を聞きながらも、父の瞳孔が開かれていく瞬間を眺めているしかない。
「あなた、あなた! いやぁぁ!」
涙を啜る声が遠巻きに聞こえる。泣き叫ぶ母の声を前に、ブライトの目からも涙が零れ落ちそうになった。
初めて知った。人はこうもあっけなく死んでしまうのだ。




