その744 『選択(終)』
結局、イユはレッサを帰らせ、ヴァーナーを医務室に運ぶことにした。少しだけ我が儘を聞いて、廊下をもう一巡だけしてやる。
そうしていると、ヴァーナーがイユを見上げて謝罪してくる。
「悪かったよ。そう機嫌を悪くするな」
イユはむくれていた頬を戻すと、言ってやる。
「別に、悪くなってはいないわよ。心配してあげてるだけ」
「いや、悪いだろう」
ぽつりと言われたが、無視する。そうして、廊下を折れ曲がってから、イユはふっと溜め息をついた。このあたりで許してやろうと思ったのだ。
「そういえば、ヴァーナーのカメラだけど。焦げたから、クルトに頼んで修理中よ」
話を露骨に変えてやる。
「あぁ、カメラか。無事に見えたんだな」
カメラの中にはフィルムが入っていた。それのことだろう。
「そうよ。あれは、ヴァーナーの指示?」
「みたいだな」
意外な回答にイユはヴァーナーを見下ろす。車椅子に座っているせいで、ヴァーナーの表情は見えない。
「怪我のせいでうろ覚えなんだよ。リーサがそう言っていたから、間違いないはずだ」
意識が朦朧としたなかでの指示だったのだろうか。本人も覚えがないというあたりに、改めて当時の壮絶な状況を窺った気になる。
「しかし、仕方ないとはいえ、俺のカメラが焦げたとか。幾らつぎ込んだと思っているんだ」
さぞ悔しそうな声であった。
「クルトが直すんだから良いじゃない」
「それは嫌だな」
キリッとヴァーナーの口調が変わる。
「あいつは自分の手で直したい」
いつの間にかカメラを『あいつ』呼びである。
「だったら、余計に早く身体を治しなさいよ」
カメラより先になおすものがあるだろう。
そう思って、医務室の扉を開ける。
その瞬間、異常に気がついた。
「イユ?」
ヴァーナーの声がする。訝しんだ声なのは、ヴァーナーにはわからないからだ。実際、いつもどおりの医務室だ。シェルとジェイクは寝ているようで静かで、時折奥からレヴァスのうめき声が聞こえてくる。
けれど、イユには奥で寝ているはずの人間の生命力さえはっきりと見えるのだ。
否、見えなくてはいけなかった。それが、今は殆ど感じられない。そして、何より―――、
「ちょっと、待ってて」
ヴァーナーにそう声だけ掛けて、イユは医務室の奥へと駆け込む。
レヴァスのベッドを通り過ぎた先で、ワイズの姿を捉える。
「ワイズ!」
ワイズが見下ろしているのは、ミンドールだ。ベッドで治療を受けているミンドールからは、生命力が殆ど感じられない。
「何で、急に」
言ってから、急ではなかったと頭の中で否定する。ミンドールの容態は前から決して良くない。ワイズたちの治療で持っていただけなのだ。それが一気に崖を踏み外してしまったかのように、悪化しだした。
「あなたの力でもどうにもならないという話でしたね」
ワイズに確認されて、イユは頷く。
「死にたがっている人間の意志の力を調整しても……」
答えながらも、認めたくなくて思考を巡らす。
ミンドールの治癒力だけに干渉するということも、或いはできるのかも知れない。イユは自分自身のことであれば、傷を人より早く治せるからだ。
けれど、それさえもイユはいつも治そうと思って力を行使した結果なのだ。ミンドールの治癒力だけを上手に操作するなんてことができるのだろうか。頭の中で何度もイメージしようとして、失敗する。
「刹那はいないの?」
或いは刹那とワイズ、それにイユの三人で力を合わせれば万が一があるかもしれないと考えた。イユの力をミンドールではなく、ワイズや刹那に使うのだ。二人の力を強めれば、効果があるかもしれない。
「出発に向けて準備をしにいっているようです。ただ、あなたも当然知っているように、刹那の力も有限ですよ。僕と同じです」
つまり、イユが力を駆使して刹那たちの力を引き上げたところで、刹那たちの限界が近づくだけになるかもしれない。
「……死にたがりをどうにかするのは、大体僕の役目のようですね」
ぽつんと呟かれた言葉に、イユは、
「ワイズ?」
と聞いていた。あまりにも静かでどこか決意に満ちた声だったからだ。
「何をする気なの?」
「少々持てる力を全て使ってみるというだけです」
イユは思わず口を開いた。
「ミンドールを助けても、ワイズが死んだら意味がないわよ」
「そこまではしませんよ。ただ……」
ワイズなら危険な賭けに挑みかねないと思ったが、さすがに命を張るまでは考えていないらしい。
「あの馬鹿姉を任せてもよいですか? 散々な仕打ちを受けたあなたたちに」
ワイズに見つめられて、イユは思わず唾を飲み込んだ。
恐らくは数日間寝込む程度に、力を駆使するつもりなのだろう。ワイズは、自分が倒れ、ブライトの救出まで起きられないということを察している。
「私の力でワイズの力を引き上げたら良いじゃない」
「僕が倒れるのが早くなるだけです。あまり変わりませんよ」
言ってみたが、返される。確かにそうだろうとの思いはあった。
けれど、それではワイズは自分で姉を助けに行けない。それどころか目が覚めたとき、イユたちがブライトのことを見捨てている可能性もある。何故ならブライトは、セーレにとっては、仇だからだ。
ワイズとブライトを助ける約束をしたときは、まだ怪我人はいるが命を落とした者はいなかった。ジルもマレイユも、直接的でなかったとしても、ブライトの行動が発端で命を落としてしまった。ワイズは懸念しているのだろう。ここでミンドールを助けたところで、当の本人が気を失ってしまえば保証なんてものはない。イユたちは、ブライトを助けにいかないかもしれない。
それに、恐らくワイズは気がついている。イユがずっと、ブライトのことをどうしたら良いか心の整理をつけられずにいることにだ。
確かに言葉だけならば、イユはブライトの救出に賛同した人間だ。
けれど、心に燻る思いはブライトを助けたいとも見捨てたいとも言っている。一方は、暗示という名の杭が心に残っているせいだろう。もう一方は、『魔術師』への消せない憎しみのせいだろう。ブライトにされた仕打ちを恐ろしくおぞましいと思っている自分自身がいる。
自分の心のなかでせめぎ合う二つの思いに、自分でもわけがわからなくなっている。自分の心を自分でどうにもできないのだ。
だからこれまでのイユがしたことは、えいやっと木の棒を道端に落として、その向いた方向に進むのと同じことであった。セーレの皆の雰囲気を見ながら、無理に自分の心に折り合いをつけたのだ。
しかしここからはそれだけでは駄目だと、ワイズの目が告げている。ブライト救出のリスクは改めて考えても大きい。そんなてきとうな折り合いでは、イユはきっとブライト救出が難しいと判断したとき、簡単に投げ出す。確たる意志を持って挑んでほしいと言いたいのだろう。
溜め息をついた。仕方のない子供だ。生意気で口が悪く、イユのことを馬鹿にする発言ばかりする。そのくせ体調が悪いと途端に静かだ。
けれど、イユはワイズのことを嫌いにはなれない。ワイズを信じさせてやりたかった。
「勿論よ。殴り足りないもの」
『魔術師』の世界で生きて絶望を知るより、イユたちといて希望を知ってほしい。そう感じるほどには、ワイズのことを案じている自身がいる。
命を助けられたからか。なんだかんだで小憎たらしい程度には愛嬌があるからか。浮かんだ疑問はどれも違う気がした。ワイズの敢えて挑発する口調や、それでいて自分が倒れようと治そうとする愚かさ加減。イユはきっと、『魔術師』でもなんでもないワイズという個人を認めているのだ。
「まだ一発も殴っていないでしょうに」
「そうよ。だから、全然足りてないわ。怒りをぶつけるためにも、生きていてもらわないとね」
ウインクまでしてやれば、ようやくワイズはいつもらしさを取り戻した。
「それなら、せっかくです。ボロ雑巾になるまで徹底的にやって下さい。そのあと、僕も参加しますので」
「それ、止めさす気満々よね?」
と、イユが思わず確認をとりたくなるほどの平常運転に戻っている。
ぽつんぽつんと、水の落ちる音がする。なんてもったいないなんて考えながら、暗くて暑い世界に座り込む。
今いる場所は牢屋だ。鉄格子の向こうには兵士がいて、直立不動の姿勢をとっている。さすがはエドワード直属の兵士である。ブライト一人に常にその緊張感を持てるとは大したものだ。
「お腹空いたなぁ」
ちらりと視線を投げかけるが、返事はない。一時間前に食べただろうの突っ込みぐらいいれてほしいものだ。
仕方無しに手元を眺める。重たい手錠をずっとしているので、擦れて赤くなってしまった。手袋も取り上げられてしまったので、法陣の刻んだ痕がはっきりと残っている。
――――あたしの人生なんだったんだろうなぁ。
死を宣告された時間が近いので、折角だから振り返ってみる。こういうときは時間がたっぷりあるものだと思うのだが、ブライトの十八年は意外と濃厚だ。
――――はじめはすっごい持ち上げられていた気がするんだけどなぁ。
何せ、ブライトは天才と讃えられてきた。今は、牢屋から出たら最後、見つけ次第怨嗟の言葉とともに石を投げつけられることだろう。言い訳する気はない。実際、それだけのことはしてきた。偶然出会ったイユたちを嵌めたし、過去にはもっと酷いこともしてきたものだ。その結果、克望に裏切られたとしても、そんなものかとしか思えない。むしろ、裏切り者の末路としては、妥当だろう。
――――ごめんね。結局、約束は守れそうにないや。
最後に交わした約束を思い出して、ブライトはふっと息をつく。元々分かっていたことだ。
「生きて帰ってくるって、相当難しいミッションだったよ」




