その743 『平常運転』
深夜になる前に仮眠を取った。集合の時間より少し前に目覚めたイユは、欠伸を噛み殺して顔を洗う。
「まだちょっと早いわね」
これならば寄れそうだと判断し、部屋を出る。階段を登り、廊下に出たところで車輪の動く音が聞こえてきた。
「ヴァーナー?」
車椅子に乗ったヴァーナーの姿が奥からぼんやりと現れる。車椅子を動かしているのはレッサだ。
「駄目じゃない、深夜にレッサを連れ出したら」
イユの言葉を聞いたヴァーナーの目が途端に半眼になった。
「なんで、車椅子に乗っている側が、連れ回していることになるんだ」
それはレッサが連れ回す性格には思えないからだ。
「っつうか、久しぶりだな」
ヴァーナーに言われて、頷く。
いつもタイミングが悪く不在か寝込んでいるかするヴァーナーだ。こうして直接会話ができたのは、実はずっと久しぶりなのだ。
「まぁ、リーサといるところを遠目に見たり、寝顔を覗いたりはしたんだけど」
「人の寝顔を勝手に覗くな!」
勢いよく叫んだせいでむせはじめるヴァーナーを見て、イユは少し反省をする。本当はリーサのことでからかってみたかったが、身体に差し支えるならやめたほうが良いだろう。
「看病のためだから仕方ないわよ。でも、目を覚ましてくれて良かったわ」
「そうだよ。イユも頻繁に医務室に看病しにきてくれているんだ」
イユが告げ、レッサの発言が加わる。ヴァーナーは気まずそうだ。
「悪かったな」
「別に、無事なら良いのよ。リーサとも打ち解けたみたいだしね?」
結局、からかってしまった。再度むせ始めるヴァーナーを見て、内心謝罪する。
「べ、別にあいつとはいつもどおりで」
「はいはい。そういうことにしておいてあげるわ」
一応反省から、軽く流しておくだけに留める。
「絶対信じてない顔だろ」
怪しむ目を向けられたので、視線をそらした。そこに、ぽつりと小声で呟かれる。
「まぁ、俺は結局のところお前のことをああだこうだと言える立場じゃないけどな」
「立場?」
思わず聞き返すと、驚いた顔をされた。
「聞こえるのかよ! 別に何でもねぇよ! ……ただ、自分が情けねぇだけだ」
ヴァーナーの言いたいことは、分かった。ヴァーナーは誰かが死にかけることでリーサが悲しむことを恐れていた。それが、今回はよりによってヴァーナー自身が死にかけたわけなのだ。自分自身を卑下にしたくなるのも分かる。
「けれど、こうして生きていたんだから良いでしょう?」
ヴァーナーは、リーサを悲しませなかったのだ。
「まぁ、な」
「僕は目を覚ましてくれてほっとしたよ。ヴァーナーはリーサのことがなければ慎重だから、大怪我するのは珍しいし」
眦を下げながらのレッサの発言に、ヴァーナーは思うところがあったようだ。
「お前も言うようになったな?」
言葉とともに鋭い目を向ける。
「ご、ごめん」
と口ごもるレッサは、肩を竦めていた。
ヴァーナー相手だと弱いよなと思いつつも、イユの頭に浮かんだのはここのところのレッサの様子である。
「むしろレッサが存外、無茶をするわよね」
忘れもしない。鳥籠の森の主相手に突き進んでいったのは、今でも驚きの光景だ。
「そうだ。お前らが異常なんだ。普通にしててくれ」
ヴァーナーが呆れ口調で言う。
イユは溜め息をつきたくなった。自分だけがまともみたいな言い方だが、当の本人は車椅子に乗って、傷を包帯で巻いているのだ。その状態でよく言えたものである。
「それをいうなら、ヴァーナーこそもっと寝てなさいよ。治らないでしょう」
「こんな凄い構造の飛行船にいて、じっとしていられるか」
即反論されて、イユは頭を抱えた。ヴァーナーも機関部員だったことを思い出したのだ。
「研究は身体が治ってからにしなさいよ」
「寝ているだけもキツイんだよ。ある程度動きがあったほうが気が紛れる」
言い訳であると一蹴するには、思うことがあった。
「そういうものかしら」
そう聞きつつも、イユ自身覚えがあるのだ。今や懐かしいスズランの島で骨折したときに、ベッドに寝かされて動けなかった。あのときは、異能のお陰で元気なこともあり、イユ自身暇だったわけだ。
「まぁ俺の場合は、ワイズが翻訳したとかいうここの船の記録も貰う約束はつけてあるから、そっちでもだいぶ暇は潰せそうだがな」
「いや、本当に身体のためにも寝てなさいよ」
思わず突っ込んでしまった。イユと違い、ヴァーナーはまだ酷い怪我なのだ。全く、ワイズもよくそんな約束をしたものである。
ふと、渋々ながらワイズが承諾する様が目に浮かんだ。イユには、ヴァーナーが相当に食い下がったとしか思えないのだ。それで圧されたワイズが許可したに違いない。ついでに、ヴァーナーへの暴言もさぞかし飛ばしたことだろう。
「ジェイクが喧しくて目が覚めるんだよ」
続けての言い訳に、イユは再三の溜息をついた。さぞかし喧しい病人だろうと、こちらも簡単に想像できてしまったからだ。ジェイクには後々文句を言ってやらないと気がすまない。
「それより、そろそろ次に案内してくれ」
「えっ、もう見るところないよ」
ヴァーナーの指示に、レッサが驚く顔をする。それにしてもやはりその物言いからは、ヴァーナーがレッサを連れ回しているようだ。
「はぁ? まだ甲板と廊下と食堂と航海室ぐらいだろ?」
他にもあるだろうという顔だが、狭い部屋に入ることは車椅子では無理だ。
「ちっ。そうなると、車椅子の改良が必要なわけか。さすがにそれは今の俺じゃ無理だ」
気がついたらしい、ヴァーナーのさぞ悔しそうな独り言に、レッサは困った顔をしている。
「改良するには、ちょっと素材が足りないんじゃないかな」
イユは呆れを通り越して、突っ伏したくなった。
「レッサも止めなさいよ」
何を一緒に悩みだしているのだろう。それに、当たり前のようにヴァーナーの車椅子を引いているが、レッサは言うほど休んでいないはずだ。桜花園に着いてからはさすがに仮眠をとっているはずだが、それまではライムの代わりにずっと機関部で働いていた覚えがある。
だから、レッサがヴァーナーと一緒に過ごすだけならともかく、一緒になって車椅子の改良をしようと思いを巡らしているのは何かがおかしいはずだ。少なくとも、
「空を飛べるようにすればいいんじゃないかな。飛行ボードなら細かったから」
「なるほどな。飛行ボードを一個借りてきて改良すれば良いわけか。立ち姿をやめて車椅子みたいに座らせる形だな」
「うん。車椅子みたいに車輪をつけたらどうかな?」
「必要か? 確かに足が不自由だと上下左右の移動が思うようにいかないが、車輪は重いぞ?」
といった議論が繰り広げられていくのは何かが違うと言いたい。
「あんたたちは、とにかく休みなさい!」
イユが、顔を真っ赤にして怒鳴れば、ようやく静かになった。




