その734 『やりたいこと(シェル編)』
嗚呼 我らが空の女神よ 我らを導きたまえ
願わくは 御魂が真なる海へとたどり着かんことを
また、この唄だ。赦しと導きを乞う唄。甲板から流れてくる微かな声に、シェルはそっと目を閉じた。近くで押し殺す声が聞こえる。きっとジェイクだろう。ジェイクは意外と泣き虫なのだ。だけれど泣いていることを指摘するのは違う気がして、シェルは聞かなかったことにする。
マレイユもいなくなったんだ。
喪失感が身を焦がす。けれど、シェルの思いに反して身体は思うように動かないままだ。リハビリは思っていたよりもずっと辛い。無理しすぎると反動がくるし、一生動かないままかもしれないという恐怖が常に付きまとう。
そうしたなか、感じるのはこうした状態でも自分が生きているということだ。
ジルにマレイユ、二人を亡くした。そうして、今、シェルの近くではいまだに目を覚まさないミンドールとレヴァスがいる。ワイズが倒れてまで治療しにきてくれているのは知っているが、決して安心できる状況でないことは知っていた。逆に言えば、ワイズが倒れるほどの魔術を掛けているのに治る見込みがないからだ。
まだ、死者は増えるかもしれない。
胸のなかの焦りが、シェルの身を更に焦がす。イユは何故かお節介でシェルにもできることがないか探そうとしてくれるが、そんなものは気晴らしにもならなかった。
「大体、娯楽って何するの、ねぇちゃん……」
ぽつりと呟く。キドが言っていたのだ。イユが、シェルと同じように歩けなくなった人の話を他のギルドで聞いてきたのだと。その人はラジオパーソナリティをしていたが、娯楽方面から考えてはどうかと助言を与えていたらしい。経験上キドの話は話半分にしておきたいところだが、それはそれとして内容が突拍子がない。
それにシェルがしたいことが、放送かと言われるとそれも微妙だ。
「そもそも、オレ。何がしたいんだっけ」
孤児院を出て、仕送りをする。それはやりたいことというより義務ようなものだ。皆がやっていたから、シェルもやるべきだと思っていた。ギルドを選んだのも似たようなものだ。孤児院を出た子供たちの大半は、ギルドに入る。それが当たり前だったし、その道しかなかったから、選んだ。セーレに拾われたのも、助けてもらったからで特別な理由はなかったはずだ。
けれど今回の怪我でシェルは多くを失った。刹那に返してと言ったところで、返ってこないことも自覚した。なんとなしに歩いていたレールの上を歩けなくなってしまったのだ。
そうしたら、シェルは何をすればよいのだろう。そもそも、何がしたかったのだろう。
「チビたちに綺麗な景色を見せてやりたいとは思っていたけどさ」
正直にいって真剣に考えたことがなかった。もしかすると孤児院の子供のなかには、きちんとした人生設計を持っていた者もいたかもしれない。けれど、シェルはそうではなかった。そうしたことを考えるという発想自体がなかった。だから、今になって梯子を外されて、困ってしまった。今更やりたいことなど浮かんだところでできないことばかりだが、それを抜きにしてもシェルには特にやりたいことがないのだ。
悩んだ末、ちらりとシェルは視線をやった。紫の髪が覗いている。声を掛けようとしてから、さすがに参考にするには無理があるかと考え直す。だから、その日は相談しなかった。
ずっと後になって、シェルは偶然リハビリ中にジェイクに声を掛けられた。
「おっ、シェルもやっているのか」
ジェイクは杖をつきながら歩いてきたところだった。もうある程度は歩けるらしい。羨ましいとは思わなかった。ジェイクの顔はシェルから見ても中々な包帯まみれである。
「ジェイクにぃちゃんはまだリハビリ無理って言われてなかった?」
シェルは、ジェイクの様子にそう返す。
「いやだって、暇だろ? 世界中の女の子が俺様を待っているだろ?」
「ごめん、ちょっと何言っているか分からない」
まともに取り合うだけ無駄だと、イユねぇちゃんが言っていたなと思い返す。
「ハイハイ。辛辣、辛辣。最近、俺様の扱い、酷くね?」
「別に辛辣なつもりはないよ。扱いも特に変わってないと思う」
少なくとも、シェルにとっては病床仲間だ。
「そうか、じゃあ俺様のモテテクをどんと聞いてくれ」
モテテクが何かはよく分からないが、何故か胸を張る仕草をしてからむせるジェイクを見ていたら、これぐらいは聞いてみてもよいかという気がした。
「そういえば、オレ。聞いてみたいことがあったんだけど」
それで、ラジオパーソナリティの話したのである。
「それだ!」
大きく宣言されてシェルは当然戸惑った。
「いや、何が?」
「俺様のやるべきことだよ!」
何故か、シェルの相談事はジェイクのやりたいことに取って代わったらしい。やはり相談相手を間違ったようだとこっそりと考える。
「この医務室を俺様の美声で、賑やかに盛り上げる!」
「うるさいからやめろ」
ぼそっと聞こえたのは、ヴァーナーの声だった。シェルの位置からだと見えないが、ジェイクの声に起きたらしい。シェルはまだ眠っているレヴァスとミンドールを思った。合わせて、医務室にいるペタオのことも考える。可哀想に、ペタオは鳥なので耳栓ができない。
「うん、ヴァーナーにぃちゃんに同意」
ペタオの代わりに意見を述べると、ジェイクは落胆した声を出す。
「えぇ、相談してきた本人が言う?」
「オレ、ジェイクにぃちゃんに医務室を盛り上げてくれなんて頼んでないんだけど」
相談内容を吐き違えられては困るというものだ。
「けど、ラジオパーソナリティなんて確かにセーレにはない役職だぜ? せっかく放送機器も完備されたって話だし、アリだと思うけどなぁ」
ジェイクは勿体ないというように唸る。確かに言いたいことも分からなくはなかった。飛行船のセーレでは、やり取りは基本伝声管だ。船内に伝達するための通信機も航海室や甲板であればあるが、音質は良くない。小型の通信機器に至っては、スナメリに貰うまで夢のまた夢の話だった。
それがタラサだと、最近になって殆どどの部屋からでも船内に流せるようになったらしい。そのうえに音質が良い。ライムたちの努力の賜物だが、船に搭載されている『古代遺物』が優秀過ぎるのだ。正直、使い余しているほどである。
その使い余した機能を使えるならば、確かにラジオパーソナリティは捨てがたい。
「皆起きてる時間が違うから、難しくない?」
思ったことを聞いてみる。寝ているときにジェイクの声に起こされたくないと想像したのだ。スナメリだとキド曰く可憐な少女の声らしいからよほど問題ないだろうが、ジェイクが仕切るとなると話は別である。
「音楽なら」
聞こえてきた声にはっとする。刹那の声だったのだ。
途端にジェイクとシェルの口は重くなった。
刹那はジェイクの席の隣に来ると、そこに何かを置く。シェルの目からは見えないが、恐らくは薬だろう。そうしてから、再び医務室の奥に戻ろうとする。その足音を聞いていたら、声がした。
「音楽ってのは」
ヴァーナーの声だ。刹那が足を止めて振り返る。
「桜花園では、琴の音がした」
シェルも知っている。桜花園は平和の象徴でもある琴の音を流している。そして、マドンナの国葬期間を除けば、朝でも夜でもずっと流れているはずのものだ。
「寝ていてもあまり邪魔にならない」
「まぁ、確かにな」
ヴァーナーがそう返すのを見て、自然に接するんだなと意外な心持ちがした。ヴァーナーの怪我も、刹那が関わっているはずなのだが、思うところはないのだろうか。
刹那が去っていく音を聞いていたら、逆に聞かれた。
「お前らも、いい加減普通に話したらどうだ」
「別に避けてるわけじゃねぇし」
ジェイクがすぐさま反論する。実態は避けたくとも看病をされている身分では避けられないというのが本音である。
「ヴァーナーのにぃちゃんこそ、何で」
言いかけてシェルは口を噤んだ。何と付け加えればよいか分からなかったからだ。
「普通に接している理由か? いや、刹那は式神なんだろ? 主の命令に従っただけなら、本人の意志は別だろ」
そういう割り切り方をしているのかと、シェルは納得する。刹那には刹那の意志が垣間見える。だから、シェルはうんと頷けなかったが、ヴァーナーはそうではないらしい。
「リーサねぇちゃんのことになると必死なのに、自分の怪我には無頓着なんだ」
睨まれたのが、分かった。
「なんでそこに、リーサが出てくるんだ」
そこは出して当然だと思うのだが、ヴァーナーは気が食わないらしい。
「いやいや、お熱いねぇ」
などとジェイクもからかっている。
「だから、どうでもいいだろ!」
そう叫んだヴァーナーが、思いっきりむせていた。
「ジェイクたち、聞こえてる。ヴァーナーを興奮させない」
刹那が医務室の奥からひょこっと顔を出して、諫める。当の本人が出てきたせいで、シェルは気まずくなった。
「音楽の話して、ごめん。だから安静にして」
そう頼み込まれたのだから、余計にだ。
「分かった、刹那もそう言っているし会話は終わりにしようぜ」
ジェイクが、むせ続けるヴァーナーのかわりにそう答える。そうしてから、ベッドに倒れ込む音がした。ジェイクが自分のベッドで寝たようだ。
「けど、音楽ねぇ」
最後に呟きが聞こえた。




