その733 『役割分担(セン編)』
「ふふ、すっかり元気ね」
扉から入ってきたマーサにセンは溜め息をつきたくなった。休むように言ったのだが、結局起きていたらしい。
「子供のいない私では力不足だったから、助かります」
マーサには珍しく長い睫毛を一瞬伏せた。いつも人前では弱味をみせない彼女だが、いまだ我が子を亡くしたことを悲しんでいることは知っている。センにとってはよく分かる話だった。
ライムに関していえば決してセンの言葉だけがライムを立ち直らせたわけではない。それまでのマーサの支えや仲間たちの存在があるから、自力で立ち直れたのだ。それが分かっていたから、センは首を横に振った。
「何をいう。君は皆の母だろう」
そうして、センはセンにできる返事をする。
「皆、君に懐いているし、君のことを信頼している」
セーレの中では一番短いイユもそうだ。初日の時点で既にマーサに対しては警戒を緩めていた気配があった。それはマーサでしかできない、マーサの人徳のなせるわざだ。
「そうしたら、あなたはセーレのお父さんですね」
マーサがそうからかうように告げる。意味がわかっているのかどうなのか、時折マーサという存在が分からなくなる。
「俺はただの死に損ないのしがないシェフだ」
だから、センはきっぱりと返した。
「死に損ないといえば、本当にお怪我は大丈夫なのかしら」
マーサは取り合わない。すぐに話の話題を変えられて、センは内心で苦笑するしかない。
「風呂上がりのライムに、南瓜スープを作る元気はある」
「身体はそうかもしれないですけれど」
身体もだが、心の傷も心配されていることは分かった。何より精神に直接働きかけてくる得体の知れない魔物が相手だったのだ。
けれど、センは平気だ。自分でも意外なほど何ともない。それは、センが一度家族を亡くしたときに既に空っぽになっていることが関係しているのかもしれない。或いは世話好きの配達人が、手紙と引き換えにセンから傷を引き取っていったのかもしれない。
後者だったならば良いと願う。マレイユは、それぐらいはしてみせる男の気がした。
「問題ない。君こそ、どうなんだ?」
センの視線はマーサに向く。マーサも、鳥籠の森の主の元にいた。センは途中から意識がないが、あの状況で全く無事とは考えにくい。それに、その前には克望の魔術で記憶を覗かれた件もある。
「私は大丈夫ですよ」
答えられながらも、嘘だろうと思った。少なくとも、疲れてはいる。そうでなければ、マーサは弱音など吐かない。
「温泉があるんだろう? 君も入ってきたら良い」
初耳だったが、クルトが手に入ったと言っていたから間違いないだろう。あの子のことは赤ん坊のときから見ているが、びっくりするほど成長している。さすがしっかり者のラビリの妹なだけはある。
「そのあとは、君の好物もご馳走しよう。先程、調理場をみて驚かされたばかりだからな」
冷蔵庫と呼ばれたひんやりとした倉庫があった。更に野菜を育てる場所まであった。子どもたちが苦戦して作り上げた跡が見えただけに、センは腕を振るいたくて仕方がない。
あれだけのものがあれば、ひょっとすると久しぶりにビッフェ形式にすることもできるかもしれないなどと考えている。実際ビッフェ形式にしたのは、イユが来たとき以来だ。あのときも決して楽ではなかったが、イユの様子から決意したのだ。ろくに食べていけなかった状況にいた子供に、少しでも幸せを味わってほしくて、食べ物が山のようにある世界を見せてやろうと考えたわけである。
「ふふ。ありがとうございます。今度こそ、お言葉に甘えますね」
マーサは、そう朗らかに笑う。
「そうしてくれ」
願いを告げてから、センは立ち上がる。マーサのことだ。きっとすぐにはお風呂には入らない。湯上がりのライムのことを気遣って、いろいろ準備を整えてから動くだろう。相変わらずの母親気質である。
「君は皆の母だ。元気でないと皆が心配する。それに、簡単に繕えるほど、子どもたちは鈍感でない」
最後にそれだけ念押しして、センは厨房へと歩き始めた。




