その732 『悲しみを乗り越えて(ライム編11)』
悲しいかと問われたライムは頷いて返した。
「はい。とても悲しいです」
ずっとずっと、喪ってしまった者を思い続ける。いつも、そうだった。後悔しかない。寂しさでいっぱいいっぱいになると、ライムは自分が壊れる音を聞く。だから心のバケツの水を少しでも減らそうとして、しがみつく。
けれど、新しい飛行船にしがみついても、いつも通りに振る舞っても、ジルは帰ってこなかった。セーレの飛行機関もライムを置いて、燃え尽きてしまった。
バケツの中の水を少しでも減らすためには、自分自身を偽るしかないと思っていた。
「――――でも、そうじゃなかったんですね」
それでは駄目なのだ。ライムはいつもそうやって目を背けてきた。悲しみを埋める飛行機関。いつも通りで良いというジルの言葉。本当はそんな言い訳には使ってほしくなかっただろうにと、相手の気持ちをやっと省みる。
「ようやく、分かった気がします」
ライムはそう告げた。目の前には霜陰南瓜のスープがある。センが作ってくれたものだ。冷え切ったそれをライムははじめて口につけた。
冷たかった。けれど、不味くはなかった。お父さんが作ってくれたスープよりも美味しいと感じた。
「私は、逃げてばかりで大事なものを見失っていた。だから、拠り所が完全に途絶えてしまったんです」
十二年間。その長くて短い時間に、ライムはたくさんのことを与えてもらったはずだ。だから、バケツの水ぐらい自分で調整できたはずなのだ。それができなかったのは、ライムが飛行機関に逃げてばかりだったからだ。そうして何も受け取っていないふりをしていたからである。
「それじゃ、駄目だったんです。だって十二年間もあったのに、私は何も知らないでいたから」
見上げると、滲んだ視界の先でセンの顔が見えた。センは何も言わないが、ライムの話をじっと聞いている。だから、ライムは続けた。
「ジルのこと、もっと知りたいです」
「それなら、シェパングのことを知ると良い」
具体的な内容が返ってきて、ライムはその言葉の真意に戸惑う。
「え?」
「ジルはあれでかなりシェパングが好きだったからな」
シェパングが好きだという話も知らなかった。けれど、思い出すことはある。こないだ入れられたお風呂だ。「堪忍」なんて叫ばれたけれど、あの言葉はシェパングのものだったはずだ。
ライムがそれに返事をする前に、トントンとノック音がした。マーサかと思ったが違う気がする。確かにセンと交代してから時間は経っているが、まだ仮眠から目覚めるほどの時間ではないはずだ。
「ねぇ、ライムいる?」
そう思っていると、扉から声がした。その声の相手が誰か分かり、ちらりとセンに視線をやる。
「あぁ。入ってきて構わない」
言いたいことを察したようで、センがそう答える。
扉を開けて入ってきたのは、クルトだった。ライムの顔を眺めてから、小首を傾げる。
「あ、意外と元気そう? それならよいのかな」
慰めにきたのだろうか、ライムには真意が分からない。センが代わりに聞いてくれるかと思ったが、無口なセンは何も言わない。
「クルトちゃん、何のこと?」
枯れた声で聞けば、クルトはライムに向かってびしっと指を差した。
「お風呂だよ、お風呂。ずっと入ってないから、この機会に入れようと思って。ちょうど温泉水が入ったんだよ」
温泉!
ライムの頭に閃光が走った。まさにシェパングに関わる内容である。
「温泉って、堪忍って言ってたし、シェパンクの文化ですよね?」
「あれ? なんか前向きな反応?」
確認のために聞いたのだが、答えよりも驚きが先にきたらしいクルトにそう返された。代わりに、センが小さく首肯する。
「入ります!」
そう宣言してから、それだけでは駄目だと気がついた。失ってから気がついて、その人の好きなことを追っているだけでは、お父さんとお母さんのときと変わらない。いなくなってしまってから、やってほしいことを頭の中で並べても寂しいだけだ。その寂しさを紛らわせるために、彼らの縁のあるものに触れていても、きっと本当の意味では満たされない。
だから、ライムはクルトの手を両手で握った。
「あと、クルトちゃんのことも教えて下さい」
失っていないものが、まだライムの手元にはあるのだ。もっと知って、もっとやりたいことを言わなくてはならない。
「センさん。お風呂のあとで、霜陰南瓜のスープのおかわり下さい。私も、好きです」
「いいだろう」
センは得意げに頷く。
「え、えぇ? なんか、どうしたの?」
クルトは何故かライムを見て驚いた顔をしている。ライムは早くとせっついた。
「ええと、ライム? 急にどういうこと? セン、何を食べさせたの?」
クルトの動揺が面白かったのか、センは、
「ふっ」
と息をつくような仕草を見せた。笑っているのだろう。
「ふっじゃない!」
叫ぶクルトをライムは引っ張る。扉を出た先に、マーサが立っていた。休んでいなかったのだ。心配でじっと立っていたのだろう。改めてライムはたくさん心配をかけてしまったのだと意識する。
「ありがとうございます、マーサさん」
だから、自分の言葉でお礼を述べた。
「ライムちゃん」
「私、まだ悲しいです。でも、悲しんでばかりで後ろ向きに生きることは、多分ジルの望みじゃないと思いました」
少なくともそれでは、『いつも通りに元気に』とは、いえない。そうライムは結論づけた。
「そう。それならお風呂の後はご飯をいっぱい食べて少しでも休んでね」
「はい!」
大きな返事をして、そのままクルトを引っ張る。大人しく会話を聞いていたクルトは驚いたように声を上げた。
「違う違う、ライム。お風呂はそっちじゃない!」




