その731 『再び燃ゆ(ライム編10)』
暫くはずっと幸せだったのだと思う。気づけば、ライムの知らないうちに船員たちも増え、賑やかな声が階上から漏れ聞こえてくることもあった。食べ物の差し入れも必ずされるようになり、無理やり浴室に連れ込まれたこともある。熱を出したときは看病をしてもらったし、寂しさを感じたときは飛行機関に触れていられた。
けれど、それは続かなかった。悪夢の再来があったからだ。
その日、ジルの叫び声でライムは我に返った。
「ジル、どうしたの?」
小型飛行船の飛行機関の調子を見ていたところだった。試しに動力を動かしていたので声を張り上げないと、ジルには届かない。
そうして、操縦席に乗ったまま部屋の様子を振り返ったライムはぎょっとした。
刹那のような子供がたくさんいる。それだけなら、可愛いと感想を呟くだけですんだ。前々から随分可愛い子供が仲間になったものだと思っていたものだ。
問題は、その子供の服に返り血がついていることである。手にしたナイフからぽとぽとと落ちていくものを見て、ライムの頭に十二年前の出来事が蘇る。
「みぃーつけた」
悪夢がライムに語りかける。探していたのだ。ライムのことを、再び捕らえようとしているのだ。
そして、ライムはとうとう見つかってしまったのだ。
恐怖のあまり喉がからからで、恐ろしさのあまりに動けなかった。
何より、赤々と燃える炎が、階段から下りてくる。あの光景まで、一緒だった。襲撃者が子供に姿を変えただけだ。
「ライム、逃げろ!」
そのとき、ジルの声が響いた。ハッチが開きはじめて、ジルが起動してくれたのだと気がつく。ジルはライムを逃がそうとしている。
「でも、ジルは!」
ジルに「早く乗って」と言いたかった。けれど、ジルのすぐ手前まで子どもたちがやってきている。
「大丈夫だ。だから、逃げろ!」
あっという間に取り押さえられるジルを見て、ライムは助けにいきたかった。
けれど、ライムの理性とも言える部分が小型飛行船を発進させている。何よりも、子どもたちが小型飛行船に飛び乗ろうとしていたのだ。
ハッチに向かって、小型飛行船が走り出す。あっという間にジルを追い抜いて、外へと飛び出た。砂漠の眩しさが、目に滲みる。殆ど見えていないまま、加速だけは続ける。遅れて顔に熱気が掛かる。機体が揺れ、安定させるべく一気に上空へと飛ばす。そうすると、鼻腔を通じて砂っぽい空気が入ってくる。むせそうになるのを堪えて代わりに目を開ける。そこには黄色い世界が広がっていた。
そのとき、衝撃が走った。振り返ったライムはぎょっとする。
――――あのときは戦えたのに、今は逃げるしかない。それどころか、逃げることさえも困難かもしれない。
機体に子供が張り付いている。しかも、二人もいる。二人とも片手でしがみつき、もう片方の手でナイフを掲げている。
「きゃっ!」
恐ろしさのあまりに桿を手放してしまい、機体が思わぬ方向にぶれた。再び握りしめたライムは目の前に岩壁が聳えていることに気づく。
大慌ててで右に舵を切ると、遅れてライムにGが掛かる。目を閉じてしまったが、最大速度は維持し続けた。すれすれのところで曲がりきったことが分かる。
そうしてから、機体を振り返ると、いつの間にか子供がいない。振り落とされたのか、機体の下に隠れているのかが分からなかった。普通の子供ならば前者だろうが、どこか怖さを感じさせる者たちだ。念のため、ぐるりと旋回して砂に映る地面を確認する。それらしい影は見当たらない。
けれど、まだ不安は過ぎったままだ。何より小型飛行船を操縦しているのはライムだけだ。操縦席から逃げ出すという手段がとれない。
「待って、ジルはどうなったの」
舌を噛まない程度に口の中で呟いてから、ライムはセーレを探す。外から見ると大きな飛行船だ。すぐに見つけられる。
けれど、そこから見えた現実はとても残酷だ。
セーレ全体が燃えていたのだ。甲板から赤々と火が舞い上がっている。ハッチを確認したが、ジルの姿は確認できない。
同時に気がついた。この火では、ジルだけでなく飛行機関も燃やされてしまう。
「戻らなきゃ」
ライムにとって、飛行機関とは自分の妹か弟なのだ。そして、ライムに寂しさを植え付けた原因でもあり、寂しさを紛らわせてくれる存在でもある。
だから飛行機関がなくなれば、ライムには何も残らない。ましてやジルまでいなくなってしまったら、ライムはどうすれば良いのだろう。
ずっと静かだった心の中のバケツの水がゆらゆらと波打つのを感じた。今のライムを取り巻くのは、不安と焦りだ。
「戻らなきゃ」
舵をセーレへと切る。歯の根が合わなかったが、向かわないという選択肢はライムにはなかった。
「戻……」
ライムの呟きは、衝撃に消された。前方だ。セーレのハッチにいつの間にか子供が数人立っている。それを確認した途端、ライムの視界は反転した。
落ちていく。小型飛行船のどこかが撃たれたのだろう。慌てて体勢を整えようにも舵が効かない。
ぐるぐると回る視界。その最後にライムの目に映ったのは、炎に包まれて崩れるセーレのマストだった。
「痛っ」
全身を強く打ち付けたせいだろう。ライムは痛みで目を覚ました。気がつくと、ライムの体は砂に埋まっており、崩れた機体がライムの体に影を作っていた。
墜落して炎上しなかったのは、運が良かった。そう思いつつ、どうにか痛む身体を這いずって影から外れる。ライムの意識はまだセーレに向いており、その姿を探そうとしたのだ。
しかし、そこには黄色の砂があるだけだった。
「え?」
燃えている飛行船の姿が見つかるはずだった。けれど、目をどれだけ凝らしてもない。墜落したとき、思った以上にセーレから離れたのだろう。
当然、セーレに戻るべきだった。だから、ライムは痛む体を抑えて、小型飛行船に予め積んであった食料だけを携帯した。本当は直したかったが、小型飛行船はばらばらになってしまったのだ。これでは如何にライムでもどうにもならない。諦めて、ふらふらと歩き出す。
方角はさっぱり分からなかった。砂に視界が閉ざされて、セーレがいただろう位置に皆目見当がつかない。
だから、がむしゃらに歩くしかなかった。砂漠の、しかも太陽が真上に登った状態での放浪だ。大して外に出る準備をしていなかったこともあり、すぐに身体中が重くなった。瞼の上から汗が溢れて仕方がない。休みたいが休んだところで、身体の元気をじわじわと奪われていくだけだとわかっていた。
何度か転び、暑さのせいで気持ち悪くなる。汗もかかなくなってくると、いよいよ不味さを感じた。頭痛がして、視界も朦朧としているのだ。
そんななか、唐突に現れたのは岩壁だった。洞窟らしき入り口がある。
身体中熱を帯びていたから、岩陰に見を隠せるのは有り難かった。そうして携帯した食料を口にしていたら、涙が出てきた。
「諦めたくない」
呟くが、ライムの理性は冷静だった。ライムがとぼとぼ歩きだしてから既にかなりの時間が経っている。ライムが最後に見たときの燃え方から、セーレは絶望的だ。あの炎の燃え広がり方では、セーレの姿など見つかるまい。ジルも大丈夫とは言っていたが、そんなわけがないだろう。
「嫌だよぅ」
なくなってしまう。ライムの知らないところで、皆いなくなってしまう。心のバケツの水が増えていく。あっという間に溢れて、ライムを壊していく。
「大切なものがあるなら、いつも元気にしていてくれ」
何故そのとき、ジルの言葉が浮かんだのか分からない。ただ、すっと浮かんだその言葉に、縋れるものがあった。
大切なものは、ある。ライムにとっての飛行機関。そして、ジルだ。それがある限り、ライムはいつも元気にしていないといけない。逆に言えば、いつも通りに、いつもと同じようにしていれば、大切なものは有り続けてくれるのではないだろうか。
――――そうだ、いつも通りでいよう。そうすれば、ジルも生きてくれるはずだ。
無茶苦茶な理論だということは、分かっていた。けれど、そう思い込んだ。そうしないと、ライムは自分を作れなかった。バケツの中の水を少しでも減らすためには、偽るしかなかったのだ。
だから、ライムは少しでもいつも通りになるために洞窟を進んだ。偶然見つけた『古代遺物』にしがみついた。そうして飛行機関の代わりにいつも通りに弄り倒そうとした。食料も尽き、幾らでも調達に行く手段を考えられたはずなのにそれさえも放り出して、ただただ自分を保つためだけに触れ続けた。
「――――でも、そうじゃなかったんですね」




