その729 『ずるいです(ライム編8)』
気がついたら、ライムは一人機関室で目を覚ました。
そこには誰もいなかった。飛行機関だけが飛行石からの僅かな光を発している。
計測器に描かれた数字を読み取って、ライムは立ち上がった。それで、今まで椅子に座ったまま眠っていたことに気がつく。すぐに光量を調整してから、ふっと息をつく。
今、どこを飛んでいるのだろう。
今更ながら疑問が沸いてくる。飛ばすことに夢中だったが、明らかに高度がおかしい。本当だったら障壁にぶつかっているはずなのに、飛行船は変わらず浮かんでいた。
伝声管を通じて聞いてみてもいいかもしれないとは考えたが、誰かと話す気にもなれず止めた。そもそも患者だというライムを金髪の男は放っておいた。そうなると、ライム以外の患者の相手をしているとみるべきだ。レパードも戻ってこないところをみると、全員忙しいのだろう。
そう推測してから、ライムは飛行機関を見つめる。
結局、飛行機関はライムの手によって安定した。
けれど、医者に告げられた言葉が頭に残っている。
――――『この飛行機関は常に人の手を必要としている』。
お父さんとお母さんの愛情を一身に受けた飛行機関は、赤子と同じでライムの手を必要としている。お父さんとお母さんだけでは飽き足らず、ライムまでもというべきなのだろうか。
正直憎しみの感情は落ち着いているだけで、消えてはいない。今すぐ突き放して、飛行船と一緒に墜落してくれても良かった。
そうできないのは、襲撃者によりすぐに駄目になるはずだった飛行機関を他ならぬライム自身が安定させたからだ。身を焦がすような寂しさは、今も消えない。この寂しさが意味のないものになってしまうのは認められなかった。
ふいにチカチカと飛行石が瞬いた。光が不安定だと気がついたライムは、安定させるべく手を動かす。刺された肩が痛んで、苛々をぶつけたくなった。
けれど、じっと飛行機関を眺めればやるべきことが見えてくる。そうして手を動かしていると、知らない間に夢中になっていた。
気がつけば、椅子の近くにバスケットが置いてあった。中に入っていたのは、ミルクの入った水筒とビスコッティだ。ずっと何も飲んでいなかったから、駆け寄ったライムは直ぐに手を付けた。ミルクはビスコッティに浸らせる前に殆ど飲んでしまう。ビスコッティもどうにか頬張った。
そうしてから、ライムの知らない間に誰かがこれを置いていったのだと気がつく。
まるで、タイムスリップでもしたかのようだった。時間を忘れて没頭できていた。読み終わってしまった本やもう手に入らない論文の代わりだ。これがあれば、寂しくないのである。
その思いを胸に抱いたままに、飛行機関を見つめる。そこにはまだ不完全さがあった。課題の山だ。これには、寂しさを振り払う、楽しさがある。お父さんとお母さんが近くにいてくれるような安心感がある。
寂寥の思いが、ライムの唇を噛んだ。耐えられずに、誰にともなく呟いた。
「こんなの、ずるいです」
ライムにとっての毎日は、ただ飛行機関に触れることになった。不安定なときはかかりつきになり、落ち着いたときは改善すべき点を頭の中で整理した。
時折、ライムのことを心配してレパードや金髪の男、レヴァスが見に来た。ライムより小さい子どもたちは、ライムがうとうととしていると代わりに飛行機関をみてくれた。
そうして、ふと気がついたとき、知らない黒髪のおじさんがいることに気がついた。
「おい、聞いているのか!」
そのおじさんは、顔を真っ赤にして怒っていた。何度もライムに話しかけていたらしい。全然気づかなかった。
「子供の玩具じゃないから飛行機関には触るな」
ライムは、その言葉を呑み込むのに数秒の理解を要した。まさかと、思ったのだ。今、目の前の見知らぬおじさんがライムから飛行機関を奪おうとしている。そんなことをしたら、ライムには何も残らない。手の中の工具を取り上げられて、心の中のバケツがぶくぶくと沸騰し始めたのが分かった。
「嫌です!」
ライムは必死に工具を奪い返そうとした。
「わっ、喧嘩すんな。お前ら!」
後ろから子どもたちの声が聞こえて、ライムはそこでようやくここにいるのがおじさんだけでないことに気がついた。けれど、今はそんなことはどうでもよい。
「返して、工具を返して下さい!」
叫ぶ合間にも背後で声がする。
「レッサ、急いで船長を呼んでくるぞ!」
「う、うん!」
――――自分から飛行機関を取り上げようとする悪魔がいる。
ライムはやってきたレパードにそう告げた。
「分かった、分かった。とにかく、工具は返してもらったからこれで良いよな?」
ライムの手に工具が戻ってきて、ふっと息をつく。
「飛行機関も、変わらずライムで見てほしい。ただ、ライムだけじゃしんどいときもあるだろ? だから、人を雇ったんだ」
余計なお世話だ。ましてや、さっきのおじさんであればいきなりライムから飛行機関を取り上げようとする人ではないか。
ライムの心の内を見破ったように、レパードは続ける。
「そんな顔をするな。確かに頭は固いかもしれないが、外の世界の知識は豊富だ。お前にとっても、発見があるだろう」
ライムは諭されてはじめて自分がカルタータの外にいると認識したのである。
「知識が豊富……。カルタータの外は飛行機関が発達しているんですか」
「そうだ。外ではいろいろな種類の飛行機関が豊富に発掘されている。気になるなら技術的なことを聞いてみたらどうだ?」
ライムの頭にはおじさんの怒った顔が浮かんだ。
「でも、怒っていました」
「それは、お前のことを心配したんだよ。不安がらなくても、ライムが質問すれば答えるはずだ」
ライムにはよく分からなかった。怒る理由が心配と言われても、ピンとこなかったのだ。
レパードは、機関室を出ていった。扉の向こうで、
「どういうことですか!」
と叫び声が聞こえてくる。
「子供がたった一人で、一切寝ずに飛行船の機関部を管理していると?」
先程のおじさんの声だった。そのあとで、ぼそぼそと会話が聞こえてくる。
「残念だが、それは無理だ」
とか、
「子供には子供の、突飛な発想ができるという武器があるんだから」
とか話している。どうも、機関室の外に追い出されていたおじさんをレパードが説得しているらしい。
「この鬼が!」
などと聞こえてきたので、上手くはいっていなさそうだ。
それらを聞きながら、ライムはそっと胸を抑えた。怒られて、ライムは必死に抵抗した。そのせいでまだ胸がどきどきしている。襲撃者に襲われたときともレヴァスを説得しようとしたときとも、また違う感覚だった。
けれど不思議なことに、バケツの中の水は減っていて、とても穏やかだった。




