その728 『医者と患者(ライム編7)』
挨拶をしてから、ライムはすぐに踵を返した。
「お、おい。傷は大丈夫なのか」
後ろから声を掛けられる。
「痛いです」
「だろうな」
その会話のためにいちいち立ち止まってはいられない。
「待て、どこに行くんだ」
「飛行船が落ちちゃうから」
鬱陶しいので大事なことだけ伝える。そうすると、また質問が飛んできた。
「他に生き残りはいないのか」
答えなかったのではなく、聞こえたが答える気力がなかった。ライムの意識は飛行機関そのものに移っていたのだ。
これは、ライムの目からみてかなり深刻だった。光節鏡の一つが壊れていたのだ。根本からボキッと折れている。これでは、計算した値に移動するのも難しい。それどころか、表面に血がついているものもある。全面磨いてある状態こそが普通なのだ。拭き取りたいが、近くに水もないときた。
同時に更に悪いことには、飛行機関に設置された飛行石のいくつかは既に死んでいた。早く取り替えないといけないが、予備の飛行石も床に飛び散っている。残量がどこまであるかは分からない。
「えっと、これはこうだから、こうして……」
絡まった糸を解くように、まずは配線から直し始める。光節鏡の角度の調整には計測器がないと難しい。ところが、それが動いていないのだ。原因は絡まった配線にある。どれかがやられて機能していないのだろう。
「ライム! 余計なことはしないでくれ」
「さっき見せてもらったから大丈夫。えっと、多分ここを……」
上の空で答えながら、ライムはやることを整理していく。
「下手にいじって、落とさないでくれ!」
悲鳴のような声は、もうライムの耳には入らない。
「大丈夫。魔法が飛び火して偶然浮いただけだから、どのみち、このままだと落ちるし……」
そう言いながら、計測器を動かし始める。
「とにかく、だ。子供が言うには、魔法が飛び火した勢いで偶然飛行石の力が解放されて浮いちまったんだと。だが、このままだと」
気がついたら、そんな声が聞こえた。どうもレパードは現状を報告しているらしい。構造上機関室だけでは飛行船は成り立たないことは、ライムも知識として知っている。連絡をつけてくれるのはありがたい。
「あっという間に燃え尽きちゃうかも!」
とりあえずと叫び、再び作業に戻る。計測器がどうにか動くようになると、大方の数値が分かるようになる。当てにならない要素は多いものの、やはり光量が多すぎるらしい。特に強い部分を数値として抑えたら、今度は飛行石に移る。交換もしたいが、まずは今の光を弱めることだ。光の調整は光節鏡だけでなく、飛行石の周りに備わった遮光フィルターでも行われる。その一つがあろうことか溶けていた。熱にやられて駄目になったのだろう。それを取り外すボタンがあるとは思うのだが、それはおじさんも言っていなかった。とりあえずと、遮光フィルターの近くにあったボタンを押す。
コンという音がして、飛行石が回転した。
「あ、間違えた」
ライムの呟きを聞きつけたらしい、レパードから叫ばれる。
「頼むから変なことしてくれるなって!」
心配なのは分かるが、何もしなければ落ちるだけだ。それに、今は何故だかとても楽しかった。怪我と恐怖でおかしくなったのではないかと思うほどに、頭の中が絶えず動いている。いつかぷつりと燃料切れを起こすかもしれないと感じつつも、やめられない。何よりも生まれてはじめて自分の手だけで飛行機関を実際に触れている。その命を握っている感覚に気持ちが高揚した。それに、今は全く寂しくないのだ。本を読んでいるときと同じ、お父さんとお母さんが近くにいてくれている感覚がある。
「飛行石はどうする。墜落するぞ」
「大丈夫、何とかなるかも!」
叫び返して、作業を続ける。
「ライム」
夢中になっていると、声を掛けられていることに気づくのが遅れた。
「ん?」
振り返ると、レパードが伝声管を差し出す。
「こっちにいる機関士は怪我人ばかりで動ける状況じゃねぇが、会話はできる。飛行石の扱い方は教えるから、そっちでどうにかならねぇか」
ライゼルと呼ばれていた男だろう。伝声管から聞こえてきた思わぬ提案に目が輝いた。
「教えてくれるんですか?」
幾らライムが提案したものが採用されているといっても全てではない。せめて、遮光フィルターの予備の場所は教えてもらわないとどうにもならない。
「勿論。嬢ちゃん一人で不安だっていうなら、この後何人か専門じゃねぇ奴らを行かせる」
「私一人でいいです」
ライムはすぐに断った。専門外の人間がやるぐらいならライムが一人で動いたほうが早い。
「大した嬢ちゃんじゃねぇかよ。幾つだい?」
「十二です」
「ほぉ。ぜひうちに働きにきてほしいねぇ」
思わぬ声が掛かり、こんなときだというのに嬉しくなった。飛行機関に触る機会が増えるからだ。
「いいんですか!」
「勧誘している場合かっ」
レパードは伝声管の相手に突っ込み、ライムに「待ってろ」と声をかける。
ライムは大人しく待ちはしなかった。思わぬ勧誘で嬉しくなったが、まだ飛行機関の問題は解決していない。急ぎ、遮光フィルターの場所だけ聞くと、設置を始める。
途中で、体をゆさぶられて驚いた。見上げると、レパードがいる。その手には布がある。
「えっと、これは?」
光節鏡の汚れを拭くにしては少々物足りない。
「隣の船倉にあった布の残りだが、止血はしておいた方がいいだろ」
そう言われて、肩の傷がそのままだったのを思い出した。
「とりあえず、縛っちまっていいな?」
ライムはこくんと頷いた。幸い、遮光フィルターは設置し終わったところなので、多少の時間は稼げたはずだ。
レパードに布を巻き付けられる。ぎゅっと縛られて、痛みが走った。忘れていた痛みが再びライムの神経を揺るがす。そうしながらも、ライムは伝声管から次の指示を聞く。大人しく座っていることはできなかった。激しく動くことは無理でも今のうちに飛行石の残量を正確に調べておくことぐらいはできる。
「これでよし。よく耐えたな」
「まだ。この子は飛びたいって言っているから」
レパードの言葉に、ライムは返す。ライムには、飛行機関が自分の妹か弟のように映っている。だから、呼び方は『この子』だった。ライムと違い、お父さんとお母さんの愛情を一身に受けた弟か妹。言葉だけみれば、何もおかしなことはない。
「レパード、終わったなら急げ。甲板から乗り込まれるぞ!」
伝声管から洩れる指示の間に、待ちきれたようにライゼルの声がした。
気がつくと、レパードはいなくなっていた。代わりに見慣れない金髪の男が隣にいる。
「君は聞いているのか! このままだと死ぬぞと言っているんだ!」
その叫び声に何度も声を掛けられていたのだと理解する。夢中になっていたせいで、気が付かなかったのだ。
「知っています。でも、良いんです」
ライムはすぐに返した。
「何を……」
金髪の男の格好から、ライムはすぐに彼が医者だと推察する。実際、ライムの怪我を案じているのはそのせいだろう。故に返した。
「私にとっての患者は、この子なんです」
男が絶句するのを見て、続ける。
「私しか直せる人はいないんです」
医者には医者に分かる言葉を使う。そうすれば、相手はライムの発言をより理解できる。相手の理解が得られやすい話し方をすると、よく褒められたものである。
「……その結果、自分が死んだら意味がないだろう。この飛行機関は常に人の手を必要としている」
医者の割に、詳しいなと感じた。誰かに聞いたのかもしれない。確かに指摘通りだ。この飛行機関は、赤子のようなものだ。ライムがいなければ死んでしまう。
分かっていたことだが、思考の外に追いやっていた。いつからか、今だけ助けられれば、それでいいと思い込んでいた。そうしたらライムよりほんの少しだけ長生きができるだけの飛行機関になるというのに、極限の状況下にいたせいかそれ以上の望みが湧いてこなかったのだ。冷静になって考えてみれば、今のままではいけなかった。
「君の患者はこの飛行機関だと言ったが、私の患者は君だ」
そんな風に強く断言されるとは思わず、ライムは思わず目をぱちぱちさせた。金髪の男はライムに怒っているように見えた。怒られたのは初めてだったのだ。そうして生まれた、一瞬の反論を躊躇った隙を突いて、男から言い切られる。
「君が機械の医者だというならば、私も手伝おう。幸い私は医療用ナイフを持ち歩いている。邪魔な配線ぐらいは切れるぞ」
どこからか椅子まで持ってこられた。座れと合図されて、ようやくライムは沸騰するバケツの水が沈んだのを感じた。
「配線は切らないでください。血管と同じですから」
そう冗談を言う余裕を持てたのだ。




