その726 『悲しみ以外の(ライム編5)』
恐怖と痛みがライムに悲鳴を上げさせようとする。それを無理矢理に飲み込むと、男を見つめた。
襲撃者は振り返り、もう片方の手でナイフを構える。ちらりとライムへと向いて、長い舌を伸ばしてナイフを舐める。獲物を捕らえる前の儀式のつもりだろうか。
どうしたら良いか、ライムはじっと考える。逃げるにも痛みが酷くて立ち上がることさえ難しい。それに、逃げたところで魔法で燃やされるかナイフを背中に投げつけられるかのどちらかだろう。それならば、交渉だろうか。
だが、目の前の男の目は灰色に濁って血走っており、ライムの目から見ても正気ではない。先程説得を試みた船員の件もある。恐らく会話は通じない。
そうこうしているうちに、襲撃者の手にあるナイフが赤く熱を帯びていく。近くにあった配線が焼け焦げた。あの男をこのままにしておいたら、人だけではなく飛行機関も燃やされるかもしれない。ライムの頭のなかで警鐘が鳴る。
「あぁ? 俺の獲物ダゾ?」
そのとき、襲撃者の動きに変化があった。ライムから視線を外して、違うところを見たのだ。僅かだが足音がしたから、誰かがきたのだろう。ナイフをぺちぺちと鞭のように動かして、襲撃者が威嚇をする。
「お前っ!」
はじめてそこで、怒りの声を聞いた。今までは蹂躙されてばかりだった。それが覆った気がした。怒れるということは、今やってきたのは戦える『龍族』でイカれた襲撃者の仲間ではないと知ったのだ。
「あぁ、そういうことカ」
けれど、妙な納得をしたのは襲撃者もだった。次の瞬間くるりとライムへと振り返った襲撃者が動きに出る。
あっという間に腕を引っ張り上げられた。肩の痛みが駆け抜けて、悲鳴をこらえきれない。首に圧迫感を感じたときには、ライムの体は完全に襲撃者の手の中にあった。
「やめろ!」
襲撃者は、ケタケタと笑っている。
「こいつがそんなに大事カァ?」
痛みが消えない。頑張って堪えようとしてもどうしても呻き声として漏れてしまう。それに、ナイフがすぐ近くで揺れていて殺されそうになっていると分かる。
恐怖と痛み、そして襲撃者から漂う血臭で頭がおかしくなりそうだった。良い子でいなくてはと、ライムは自身を叱咤する。そうしないと、お父さんとお母さんが助けに来てくれない。
―――お父さんとお母さんは死んでしまったのに、どうやって?
そこまで考えて、頭の中が真っ白になった。
お父さんとお母さんは、燃えてしまった。もう、良い子だと褒めてくれることも、上手くない料理をもう一度作ってくれることもない。
続けてきた現実逃避が、とうとうできなくなった瞬間だった。ライムがどれほど良い子にしていても、決してお父さんとお母さんは助けには来てくれない。その事実に、心のバケツの水が一気に溢れ始める音がした。そうして溢れた水はバケツそのものを壊しにかかる。
崩れていく。ライムを繋ぎ止めていた全てが、目を塞ぐことでやり過ごしていけたはずの現実に覆されていく。事実は決して揺るがず、ライムを形作っていたものを完膚なきまでに潰していく。
「お前は、俺が雷の魔法を使うことを知らないな?」
遠くで、そんな声が聞こえた。
「俺は人質ごとお前を気絶させてから、止めを刺せばそれでいい」
舌打ちが聞こえたと思った瞬間、ライムの体が投げ出された。衝撃に息が詰まる。
痛みがライムの身体を打つ。どくどくと流れるのは、ライム自身の血だ。こういうときは応急処置をしなくてはならないと、学校で習ったことを思い出す。
けれど、ライムの身体は動かない。
頭がくらくらするせいもあるが、気力がついていかない。応急処置をするということは、生きようとすることだ。そうして生きようとすれば、お父さんとお母さんが喜んでくれるはずだった。
つまりライムにとって生きようとすることとは、良い子として振る舞うことと同義なのだ。
扉の前で風を引かないように布団を持っていくことも、食卓にご飯を並べることも、応急処置をすることさえ、全ては良い子でいることの延長線上にある。そうやって生きていけば、お父さんとお母さんの手を煩わせない。加えて専門書を読み飛行機関に関して意見が言えればもっと喜んでもらえる。ライムにあったのは、それだけだ。
ちかちかする視界は収まってはくれない。痛みは身体中を突き抜けるかのようだ。そんななかで、ぽつりと考える。
――――もうお父さんとお母さんがいないのならば、果たして助かろうとする意味はあるのだろうかと。
むしろじっとしていたら、お父さんとお母さんに会えるかもしれない。このまま意識を失って倒れていれば、きっとそうなる。それで良い。そうして、生きることからも逃げてしまえるなら、ずっと楽だ。
熱が瞼にちらついた。二人が戦っている余波がライムの元にも届いたのだろう。たまらず薄目を開けたライムの目に、飛行機関の姿が飛び込んでくる。
今日初めて空を飛ぶために磨かれたそれは、血に染まっても尚その場で動き続けている。ライムの手で飛ぶことさえもしていない。狂気の火によって飛び火しただけの起動で、不安定ながらに浮いている。船員たちが皆屍になっても、止まらない。燃え尽きるそのときまで、生き続けている。
けれどそれももう、ライムにとってはどうでもよいことだ。お父さんとお母さんは悲しむことさえないのだ。死んだらそれまでなのである。
そこまで考えて、はじめて動いたはずの飛行機関の寿命がすぐそこまできていることを意識する。
ライムと一緒だった。放置しておけば、一緒に死ねる。
お父さんとお母さんが毎日朝から夜まで閉じこもって作り上げた傑作だ。それが、こうも簡単に消えようとしている。
――――なんて、無意味だったのだろう。
飛行機関さえなければ、ライムは寂しさなど感じずに一緒に過ごしてもらえたはずだったのだ。
そう、ライムは本当は、お父さんとお母さんにやって欲しいことがいっぱいあった。頭を撫でて欲しかった。ご飯を作ってほしかった。一緒に遊んで欲しかった。褒めるだけでなく怒って欲しかった。少しでも長く一緒にいてほしかった。手が掛かるなどと思わないで欲しかった。寂しい思いをさせないでほしかった。
全ては、この飛行機関のためなのだ。ずっとライムは我慢してきた。良い子として振る舞い続けた。
だからこそ、ライムは飛行機関が羨ましく、眩しく映る。これは、ライムがどんなに良い子になろうと振る舞っても手にいられなかった、お父さんとお母さんの愛情を受けて作られている。
にも関わらず、訳の分からない襲撃者のせいで、あっという間に潰えようとしている。そんなことは、断じて認められなかった。
――――許せない。
はじめて意識した悲しみ以外の感情は、激しい憎悪だった。




